元JW2世が書いた本

佐藤典雅さんの「ドアの向こうのカルト」以降、元JW2世の本が出版されるようになりました。

一昨年に出版された、坂根真実さんの「解毒 エホバの証人の洗脳から脱出したある女性の手記」

そして、去年末から今年にかけて、
いしいさやさんの「よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話」と、
たもさんの「カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由」
おふたりのコミックタッチの本によって、エホバの証人2世(多くが女性)がどんな壮絶な人生を歩んできたのか、世間へアピールされる機会がより増えてきています。

エホバの証人だけでなく、他のカルト2世たちにも共通する苦悩があります。
「カルト」という閉ざされた社会に生まれ育ち、歪んだ家庭環境と、カルト信者である親からの条件付きの愛情のもとで育ち、心に大きな傷を負っています。
社会で生き抜くために必要な、教育もろくに受けられず、中には親元から脱出するのも命がけ。
2世たちは、壮絶な戦いを経て、世間の荒波に出ていかねばなりません。

そんな元2世信者が、カルトからの回復への歩みを進められるよう、社会の各方面において支援が求められていると思います。


死と復活

ヨハネ11:32-35
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。

ローマ8:26
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

敬愛する友人のひとりであった、植田真理子さんが亡くなられたのが3月。
そして、高澤守牧師が亡くなられたのが5月。

7月には、元JW2世の親友がお母さんをガンで亡くされたそうです。
つい数日前にも、別の元JW2世の友人がお母さんを亡くし、親の死に目にも会えないという不条理に遭遇されていました。

 

今年は、ほんまに辛い出来事が続きました。

イエスさま、聖霊さまが、私たちとうめき、泣いておられる光景が見え、いま、僕も泣いています。

主よ、どうしてですか?

泣きながら祈ってました。

 

すると、ふたつの聖句が与えられました。

エゼキエル18:23

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 

神が死を創造したのではなく、死は神のみこころではないこと。神は生きることを望んでおられること。

そして、死は終わりではなく、始まりであること。

今夜はイエスの降誕を祝う、クリスマス。

イエスさまは、神であったのに、わたしたちのために死ぬために、己を卑しくして人になってくださいました。

イエスの降誕、死と復活。

これこそが、わたしたちの希望です。

 

メリークリスマス!!



強い男。強い神。

自分の「男は~であるべき」観は、親の影響を強く受けてると思う


父は、強い人やった。

弓道をやってたから、腕っぷし強かったし。
理系で、弁の立つ人やったから、父に口答えができひんかった。
手先が器用な人やった。

一方、僕は弱いし、親父みたいに数学得意やないし、不器用なので、コンプレックスがものすごく強かった。

ところが、高校生ごろから、風向きが変わってくる。
理論整然としているように見えた親父の「理屈」のほころびが見えてきた。
当時の僕は記憶力がものすごかったから、親父の主張の矛盾もよく見えた。
今まで言い負かされ、黙っているしかなかった僕が猛然と反抗するようになったので、親父がいたくプライドを傷つけられたようだった。

親父は数年単位で職を転々としてたけど、僕は鬱でぶっ倒れるまで十年近く正社員としてひとつの会社に勤め続けたから、「サラリーマンとしては親父に負けない」と自負するようになった。

そんな自分のプライドが、鬱によって打ち砕かれる。
自分も、父と同じように、弱く、不器用な人間なのだという事実を突きつけられて、すごく凹んだ。


物心ついた頃から、なんとなく「母親のことは、自分が守ってあげなくてはいけない」という意識が強かった。

母から聞いたエピソードで、強烈に覚えていることがある。
僕が3歳のころ部屋の中で遊んでいて手を切り、血がダラダラ流れたことがあったらしい。
親父はハンコ職人をしているから家にいる。
母は父に助けを求めたらしいが、父は仕事に没頭していて、対応してくれなかったらしい。
寒い雪吹きすさぶ中、母は僕を抱いて、病院を探して回ったという

「父は強いけど、自分のことを守ってくれない」という気持ちと、「母は弱いから、自分がしっかりして、母のことを守ってあげなくちゃ」という気持ちが、自分の中に強烈にインプットされた。

そんな僕が、母の意に反してJWを離れることを決めたが、自分の本心をとてもじゃないけど母に打ち明けられなかった。
どれだけ母を失望させ、悲しませることになるか、容易に想像がついたからだ。

JWを離れたあとの僕は必死やった。
「JWを辞めても幸せになれる」ことを、身をもって証明したい気持ちでいっぱいだった。
だから、身を粉にして働き、正社員の地位を獲得し、結婚して独立した。

でも、長続きしなかった。
「弱い母を守ってあげる強い長男」であるべきなのに、親不孝で弱い自分が許せず、耐えられなかった。

「男は強くあらねばならない。女を守らねばならない」という価値観に、がんじがらめになっていたために、すごくしんどかった。


自分が発達障害であるという事実を知って、ようやく、弱い自分を受容できるようになってきた。


 

先日、教会で、「コリントの信徒への手紙 一」の講話を聞いてきた。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(I コリント 1:21)

牧師の講話より。

「神を知る方法には、ふつう2つの方法があります。
第一は、自然界を観察して「神は~のような方である」という結論に至る道です。これは科学の世界であり、下から上に登っていく考え方であり、「神は分かる」という知識を前提としています。
第二の方法は、啓示によって「神は~である」と信じる道であり、上から下へと降ってくる考え方です。これは「神は分からない」という無知を前提としています。キリスト教は、後者の考え方をとります。( Joel 注: エホバの証人は前者の考え方をとっている。「エホバ神を知ることは可能であり、知らねばならない」と教えられている)

神はすべての存在を越えています。存在を越えている者を知ることはできません。
なぜなら認識は、存在物に関わることだからです。仮に、神を知ったとしても、それは神自身を知ったのではなく、それに劣る何か、(-私たちの能力で知ることができるもの-)を知ったにすぎないのです。故に、神を知るためには、<分かる(=高慢)という心を捨てて謙虚にならねばなりません。あまりに光が強いと視覚が失われるように、被造物の知識が過剰になると、神に達するための唯一の道である<無知=謙虚>が失われるからです。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ 1:18)
「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(ヨハネ 11:27)「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(I コリント 2:11)」

・・・

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(25節)

十字架という敗北、弱さ、無力さは一見すると愚かさにみえるけれども、神が人間のために愚かになってくださったということが賢いなさり方であり、人間のために弱くなってくださったことにより、安心して人間は神に近づけるのである。それこそ神の強さである。本当に強い者は弱くなることができる。


 

 

「神を知ることなどできない!」と断言されたこと、かなりショックだった。
考えてみれば、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいころでしょう」(ローマ 11:33)とあったではないか。

そして、「本当に強い者は弱くなることができる」というフレーズがとても印象深かった。
そりゃそうだ。全知全能の神でいらっしゃるのだから、弱さだって障害だって理解しておられる。
うつの者の気持ちだって、障害を持つ者の嘆きだって、神様はご存じではないか。

十字架は、「弱い神」のシンボルであるために、JWにとっては頼りにならへんものかもしれないが、僕にとっては大いに勇気づけられる。感謝である。

 


ブログ移転

ずっとアメブロは使いずらいなぁ・・・と思ってたんですが、なかなか移行できずにいました。

新しくレンタルサーバーを借りて、WordPressをインストールしたので、この機会にブログを移すことにしました。

調べてみたところ、Ameba→FC2ブログ→WPというデータ移行方法があることが分かりまして。

  1. 「FC2 ブログお引っ越しツール」を使って、AmebaからFC2にデータを移行する。
    https://blog.fc2.com/import/register.php
  2. FC2でバックアップデータを取り出し、WPにインポート
    http://miyearnzzlabo.com/archives/238 ←こちらを参考に

・・・というようなかんじで、無事にWordPressに移行できました。



戦友との再会

とても嬉しいことがあったので、ブログを書いています。

以前、ブログ仲間の元JW2世と関東で会ったことがあります。
彼女は統合失調症を患い、常々「死にたい」と口にしていました。
たびたび自殺未遂を繰り返していました。

どうすれば彼女が救われるのだろうか。癒やされるのだろうか。
僕は何度も、涙ながらに神に祈りました。
しかし、答えが分からぬまま、音信不通になってしまいました。

彼女のブログを読んでいた元JW2世の皆さんも、同じ思いだったと思います。

その彼女と、3年ぶりにFacebook経由で再会しました。
彼女は離婚し、実家のある関西に帰ってきていました。
さっそく彼女と会い、何時間も話し込みました。
3年経ち、彼女は以前とはすっかり変わって積極的になり、
バイトを始められるまでに快復していました。
本当に嬉しかったです。

神様は、ひとりひとりにとって最善の時に、その人を癒やすことがおできになる。
改めて、そう確信しました。

願わくば、彼女が神様を求め、クリスチャンとして再び神と共に歩む人生を楽しんでもらえたらと思うばかりです。


性格検査の所見

先日、ロールシャッハテストを受けました。
所見をもらいましたので、参考まで掲載します。

【結果】 課題への意欲は高く、期待に応えようという意識が強くみられる。分かりやすいように伝えようというコミュニケーションについて他者への配慮に関する関心は高い。

そういうJoel氏の意識の高さに反して、場面によって対応の違いが大きい。Joel氏は、外側で起きていること、実際にあるものを観察する力に優れている。実に細やかで正確な観察力を持っていると言える。しかし、観察して得たことを受け身的にそのまま受け取りやすく、現実的な判断や主体的な行動を起こすには、何を重要とし、何を捨てるかという柔軟性や許容を必要とするが、これがうまくいかないことがある。また、感情が動揺するような場面では、より関わる範囲が狭くなり、より「正確で間違いない」状況を求める傾向がある。…感情を抑制し、理性とうまく複合的に事態に関わるのは非常に苦手である。

他者と協調的に関わりたい、関わるべきであるという価値観を持っているように思える。
しかし、上述の細やかな観察力が「こだわり」となり、気が付いたことを許容することが難しく、結果的に全人的関わりはなかなか困難である。他者からの評価への恐れや男性性への圧倒感があり、女性に対してのほうが安心感があるようである。自分への不全感、人への劣等感も見られるが、あまり意識されていず、かえって堂々と振る舞って違和感を与えるようなこともあるかもしれない。…

とても的確な指摘で、驚きました。

「男性性への圧倒感があり、女性に対してのほうが安心感がある」・・・このあたりも、なかなか理解してもらいずらいところです。
別に僕は、自分が男性であることに何の違和感も持っていませんし、恋愛対象は女性です。
しかし、男性の中にいると、「男性性」への圧倒感を覚え、たじろいでしまうことがあるのは事実です。だから、いわゆる「体育会系」男子のようなむさくるしいところは苦手です。
むしろ、女性と一緒にいるほうが安心感があります。
これはエホバの証人の会衆内でも、高校(商業高校のためクラスメートの大半が女子)でもそうでしたし、教会内でもそうです。
そういうとき、自分が男性であることや自分がもう30代半ばのおじさんであることは忘れてしまっているときがあります。
だから、他者から自分がどう見られているかが分かってなくて、そこで誤解を招くときも多々あるようです。


CPTSD(複雑性外傷症候群)

こんなサイトを見つけました。

http://slan.or.tv/texts/cptsd-faq.html

こんなの読むと、今自分がやろうとしていることが全部無意味に思えてきちゃいます・・・

難しいですね。

「努力は無駄にならない」「希望は必ずある」という意味での「自己肯定感」を持つことは、とても大切。

でも、「僕は何も悪くない」と開き直ったり、「僕にはどうしようもないんだから、周りが僕に合わせてくれなきゃ無理」みたいなのは論外。 ←案外、こういうふうに僕が思っているかのように感じられている方もおられるのかも。

日々めまぐるしく変化の激しい世界の中で、日常を生きていくだけでも、とても大変で、しんどくて、つらいことです。

まして、特殊な環境で育ち、心が未熟で、傷つきやすく、弱り切っている人にとってはなおさらです。

僕は、エホバの証人2世として「模範的」な生き方をしてきました。
自分の意志に反して親から強いられて・・・ではなく、自分の意志で、自分の信念に従って生きてきた「つもり」でした。

自分が信じてきた神。その神様からの愛は、今も変わらず信じています。

でも、自分に「さも」選択の自由が与えられていたかのように「見せかけられ」て、実は最初から選択肢はひとつしかない、他の情報が一切遮断された環境に置かれ、自分の意思や可能性や希望の多くを奪われてきたことに気づいたとき、途方もない絶望に陥ったんです。

だって、好きな高校・大学に進み、好きな研究に打ち込む道だってあったかもしれないのです。
「働く技術を習得するために」商業高校に入りましたが、そもそも高校に行く目的が違っていれば、自分の生き方は全然違ったものになったかもしれないのです。

中学や高校の先生方が何度も何度も「大学進学を考えてみないか」と勧めてくださったのに、にべもなくそれを断り、その可能性さえ考えようとしなかったこと。
自分の視野狭窄が情けなくてしょうがなかったんです。

だから、自分の視野を広げよう、もっといろんな価値観を取り入れようと必死になって生きてきました。
おかげで、JW時代には考えられなかったような、色んな人たちとの出会いという宝物をいただきました。

これからも、僕はもっと視野を広げていきたい。

このブログのタイトルのとおり、「seek」、探求しつづけていきたい。

自分の認知が歪んでいることは、ある面においては認識しているし、ある面においては拒絶してしまっているかもしれない。
でも、僕は決して諦めてはいないんです。
これからも変わり続けたい。成長し続けたい。
失ってきた多くのものを取り戻し、新しいものといっぱい出会いたい。

これが、今の僕の思いです。

これから、長い長い闘いが続きます。

どうか、気長に見守っていただければと思います。

不器用なんです。
鈍くて、頑固で、天の邪鬼なんです。

それでも、三歩進んで二歩下がり、回り道を繰り返しながら進んでいきます。

神様が、この地上で命を与えてくださっている限り、僕はもがきつづけます。
それが、僕が生かされている目的だと思ってるからです。