JW (エホバの証人)一覧

神に罪の許しを要求する!?

友人に教えてもらいました。
詩編25:11。
<新世界訳>
エホバよ,あなたはそのみ名のために,
わたしのとがを許してくださらなければなりません。それは少なからずあるからです。
or your name’s sake, O Jehovah,
 You must even forgive my error, for it is considerable.

<文語訳>
わが不義はおおいなり
エホバよ み名のために之をゆるしたまえ
<口語訳>
主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください
わたしの罪は大きいのです。
<新改訳>
主よ。御名のために、
私の咎をお赦しください。大きな咎を。
<新共同訳>
主よ、あなたの御名のために、
罪深いわたしをお赦しください
こうやって並べると、一目瞭然です。
新世界訳だけが、神に許しを要求しているのです。
なんと不遜なことでしょうか。
このような態度で神のもとに近づいて、神から罪の許しを受けられることを期待するほうが間違っています。
新世界訳がいかにひどい翻訳かを如実に表す一例ですね。
本来、この聖句は、
自らの罪深さ、罪の大きさを痛感している詩編作者が、主(エホバ)に対して許しを嘆願しているのです。

エホバの証人が、救いは自分の行いに対する報いであり、獲得するものであると考えているからこそ、このような翻訳をするのでしょう。
彼らは楽園での永遠の命という報いを獲得するために必死になって、来る日も来る日も個別訪問に明け暮れているのです。

しかし、救いは、人間がどんなに努力をしても、どんな代価を払っても、獲得できるものではありません。
あくまでも救いは、神の恵みによるのです。
ですから、まことに残念なことではありますが、エホバの証人は、神からの罪の許しを受けることも、救いにあずかることもできないのです。

(テモテ第二 1:9,10)
<新世界訳>
[神]はわたしたちを救い,聖なる召しをもって召してくださいましたが,それはわたしたちの業によるのではなくご自身の目的と過分のご親切とによるのです。これは,キリスト・イエスとの関連のもとに,久しく続いた時代の前からわたしたちに与えられていましたが,
今や,わたしたちの救い主キリスト・イエスの顕現によって明りょうにされたのです。
<文語訳>
神は我らを救い聖なる召しをもて召し給えり。是(これ)われらの行為(おこない)に由るにあらず、神の御旨にて創世の前にキリスト・イエスをもて我らに賜いし恩恵(めぐみ)に由るなり。
この恩恵(めぐみ)は今われらの救主キリスト・イエスの現れ給うに因りて顕れたり。
<口語訳>
神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく神ご自身の計画に基づき、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜っていた恵み
そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。
<新改訳>
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなくご自身の計画恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたのであって、
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。
<新共同訳>
神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく御自身の計画恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちに与えられ、
今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。
文語訳の時代から「恵み」と訳されているのに、なぜか新世界訳は「過分のご親切」などという不可解な言葉に置き換えています。
エホバの証人の、神の「恵み」に対する認識の欠如の現れでしょうか・・・。


1Q84 BOOK1 読了

図書館で借りた、「1Q84 BOOK1」を読み終わりました。

改めて感じたのは、「証人会」、つまり「エホバの証人」について具体的かつ詳細に記述されていることです。

これは単なる空想小説というより、「エホバの証人」のカルト性への警鐘という意味も込められているのではないか、とさえ僕には思えます。

(注意! まだ1Q84をお読みになっていない方へ。 以後、ネタバレだらけですw)

中澤啓介牧師の読後評にも載っていますが、
http://jwtc.info/modules/newsletter/index.php?content_id=18

例えば、ものみの塔の聖書解釈と終末論については次のように解説している。
「その女の子の両親は『証人会』という宗教団体の信者だった。キリスト教の分派で、終末論を説き、布教活動を熱心におこない、聖書に書いてあることを字義通りに実行する。たとえば輸血はいっさい認めない。だからもし交通事故で重傷を負ったりしたら、生き延びる可能性はぐっと狭まる。大きな手術を受けるのもまず無理だ。そのかわり世に終末が訪れたときには、神の選民として生き残ることができる。そして至福の世界を千年間にわたって生きることができる。」(一巻、270頁)
あるいは、エホバの証人の子供たちが学校でどのような問題に直面するかをも見事に描いている。
「彼女が『証人会』信者であることはクラスの全員が知っていた。彼女は『教義上の理由』からクリスマスの行事にも参加しなかったし、神社や仏教の寺院を訪れるような遠足や修学旅行にも参加しなかった。運動会にも参加しなかったし、校歌や国歌も歌わなかった。そのような極端としか思えない行動は、クラスの中でますます孤立させていった。」(一巻、272頁)
・・・これらは、僕自身も経験したことです。

輸血拒否というこの団体の最大の問題については、老婦人の口を通してこう語らせる。
「私の正直な意見を述べれば、『証人会』はまともな宗教とは言えません。もしあなたが小さな子供の頃に大きな怪我をしたり、手術を要する病気にかかったりしていたら、そのまま命を落としていたかもしれません。聖書に字義的に反しているからといって、生命維持に必要な手術まで否定するような宗教は、カルト以外の何ものでもありません。それは一線を越えたドグマの乱用です。」(一巻、434-5頁)
さらに著者は、この輸血拒否の教えに対してエホバの証人の子供たちが置かれている位置について、次のような解説を続ける。
「青豆は肯いた。輸血拒否の論理は、『証人会』の子供たちがまず最初に頭にたたき込まれることだ。神の教えに背いた輸血をして地獄に堕ちるよりは、清浄な身体と魂のまま死んで、楽園に行った方が遥かに幸福なのだ。子供たちはそう教えられる。そこには妥協の余地はない。・・・子供たちには批判能力が具わっていない。そのような論理が社会通念的にあるいは科学的に正しいかどうか、知りようもない。子供たちは親から教わったことを、そのまま信じ込むしかない。・・・」(一巻、435頁)
輸血だけではない。ものみの塔が異教的な祭りを拒否していることについても、次のようにふれる。
「聖書の教えにどこまでも忠実な『証人会』の熱心な信者である両親は、あらゆる世俗の祭りを軽蔑し、忌避した。」(二巻、432頁)

さらに小説は、幼いときにものみの塔の信仰を強要される悲劇を明らかにする。
青豆が伝道のために母親に連れられて歩く姿は(一巻、271頁)、もしエホバの証人が読むなら、この描写はそのまま自分の追体験になるはずである。それは、「どれほど深く子供の心を傷つけるものか」(一巻、273頁)と叫ばざるを得ない経験なのである。
青豆が傷として残っている「いじめの(正確には、いじめられた)経験」を、小説は次のように描く。
「そのときに一人の男子が『証人会』の布教活動をしていることで彼女を揶揄した。家から家をまわり、馬鹿げたパンフレットを渡して回っていることで。そして彼女のことを『お方さま』と呼んだ。それはどちらかといえば珍しい出来事だった。というのは、みんなは彼女をいじめたり、からかったりするよりは、むしろ存在しないもの(原文は傍点)として扱い、頭から無視していたからだ。」(一巻、274頁)

「もし両親が『証人会』の信者でなかったとしたら、彼女はごく当たり前の女の子として育ち、みんなに受けいれられていたことだろう。きっと仲の良い友だちもできていたはずだ。でも両親が『証人会』の信者であるというだけで、学校ではまるで透明人間のような扱いを受けている。誰も彼女に話しかけようとしない。彼女を見ようとさえしない。」(一巻、275頁)
エホバの証人の子供たちは、組織(そして親)から「世の友になってはいけない」と教えられ、クラスでは孤立する立場を選ばざるを得ない。それがいじめに発展する。そのときに起こる内面的葛藤は、おそらく経験者でない限り分からない。だが、この小説に知るされている村上の描写は、まるで、二世たちのプログを読んでいるような錯覚に陥らせる。

しかも、この記述は、12章の天吾を扱った記録の中に置かれ、その前後の11章や13章における青豆の行動をもたらす遠因になっているかのような書き振りである。その両章では、青豆とその仲間のあゆみが、度を越えた放縦なセックスをもてあそんでいる。あゆみには、そういう行動に出ざるを得ないような不幸な(レイプの)経験が少女時代にあった。青豆にも、同じではないが、少女時代にいじめの経験があった。それは精神的なレイプと同じなのだ、著者はそう言いたかったように見える。

青豆は、10歳のときに信仰を捨てたにもかかわらず、幼いときから植え付けられたものみの塔の呪縛に縛られ続けている。それは彼女が、とんでもないところで「王国の到来について思いを巡らせ」たり(一巻、236頁)、場違いなところで王国について話たり(例えば一巻、345、353頁)、祈りの言葉を発してしまうことことの中に見られる(二巻、151、156頁)。
「そのあとで、目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。」(一巻、66頁)
「躊躇なく、冷静に的確に、王国をその男の頭上に到来させた。彼女はそのあとでお祈りさえ唱えた。祈りの文句は彼女の口からほとんど反射的に出てきた。」(一巻、302頁)
三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。青豆は、幼い頃の宗教的な刷り込みが大人になっても消えないことを、カルト教団の教祖深田との会話の中で確認している。
「あなたは子供の頃、『証人会』の信者だったと聞いている」
私が選んで信者になったわけではありません。信者になるよう育てられただけです。そこには大きな違いがあります
「たしかにそこには大きな違いがある「と男は言った。「だが幼い頃に植え付けられたイメージから、人は決して離れることはできない
「よくも悪くも」と青豆は言った。(二巻、193頁)

青豆は、幼いときに受けた宗教的トラウマから、「家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たち」を嫌悪する(一巻、204頁)。彼女が受けたトラウマは、物理的な暴力というより、彼女の精神を呪縛してしまう有言・無言の周囲の圧力だった。
「だから彼女は両親を憎み、両親が属している世界とその思想を深く憎んだ。彼女が求めているのはほかのみんなと同じ普通の生活だった。・・・一刻も早く大人になって両親から離れ、一人で自分の好きなように暮らしたかった。」(一巻、328頁)
「もちろん『証人会』の内部で実際にレイプに巻き込まれるようなことはなかった。少なくとも彼女の身には、性的な種類の脅威は及ばなかった。まわりにいた『兄弟・姉妹』は、みんな穏やかで誠実な人々だった。しかし正しい動機がいつも正しい結果をもたらすとは限らない。そしてレイプというのは、肉体だけがその標的となるわけではない。暴力がいつも目に見えるかたちをとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ。」(一巻、433頁)

「自由意志に基づいて」と言いながら、「・・・するはずです」とか「・・・と考えるはずです」といった記述が、ものみの塔の出版物には度々みられます。まさに詭弁です。

自分の意志で選択しているかのような錯覚を与えながら、考え方や行動の仕方が細かく縛られているのです。

そして最後に、この小説が、ものみの塔は家族関係を破壊してしまうカルトだと述べていることに注目しておこう。カルト教団の教祖を殺害するため青豆を雇った老婦人は、青豆がカルトがらみの傷を負っていることを指摘する。
「あなた自身が少女時代に、カルトがらみの心の傷を負っていることは承知しています。あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです。そしてあなたが信仰を捨てたことを決して赦そうとはしない。そのことが今でもあなたを苦しめている。」(一巻、434頁)
青豆は、自分の家族について振り返ってこう言う。
「青豆には四歳年上の兄がいた。おとなしい兄だった。彼女が決意して家を出たとき、彼は両親の言いつけに従い、信仰をまもって生活していた。今どうしているのだろう。しかし青豆は家族の消息をとくに知りたいとも思わなかった。彼らは青豆にとって、もう終わってしまった人生の部分だった。絆は断ち切られてしまったのだ。十歳より前に起こったことを残らず忘れてしまおうと、彼女は長いあいだ努力を続けてきた。私の人生は実際には十歳から開始したのだ。それより前のことはすべて惨めな夢のようなものに過ぎない。そんな記憶はどこかに捨て去ってしまおう。しかしどれだけ努力をしても、ことあるごとに彼女の心はその惨めな夢の世界に引き戻された。自分が手にしているもののほとんどは、その暗い土壌に根を下ろし、そこから養分を得ているみたいに思えた。どれほど遠いところに行こうと試みても、結局はここに戻ってこなくてはならないのだ、と青豆は思った。」(一巻、485頁)

「十歳の時、私が信仰を捨てると宣言してからは、母親はいっさい口をきいてくれなくなった。必要なことがあれば、メモに書いて渡した。でも口はきかなかった。私はもう彼女の娘ではなくなった。ただの『信仰を捨てたもの』に過ぎなかった。それから私は家を出た。」(一巻、524頁)
「ご存知だとは思いますが、私はわけがあって両親を捨てた人間です。わけがあって、子供の頃に両親に見捨てられた人間です。肉親の情みたいなものとは無縁な道を歩むことを余儀なくされました。・・・」(二巻、24頁)
カルトは、家族の絆より、組織の絆を優先させる。だから、エホバの証人の世界では、脱会した人とは、例え家族であっても口をきくことを許さない。この小説は、青豆の歩んだ道をたどりながら、ものみの塔信仰が家族を引き裂いてしまう様子を実にリアルに描いている。

僕自身、同じ経験をしました・・・。

家族の絆より組織の絆が優先される事態に直面したときの絶望感は、計り知れません・・・。

小説『1Q84』は、ものみの塔・エホバの証人の問題を他にもいろいろな方面から取り上げている。
この小説をひとつのきっかけとして、エホバの証人のカルト性に、ひとりでも多くの人が気づいてくれることを願います。


真の自由を求めて ― 僕の闘い

最近、いろいろありまして…
改めて思ったこと。
僕がエホバの証人から離れたのは、自由を求めていたからです。
「宗教なんか懲り懲りだ」と思っていた20代、自由を謳歌しましたが、どこか虚しさを感じていました。
急に不安になったり、寂しさに耐えられなくなったりもしました。
クリスチャンになった今、真の自由の意味を改めて考えています。
何が正しい、何が間違いと、いちいち白黒つける必要なんてない。
奉仕しろと強いられることもない。
開拓者なんて肩書きもいらない。奉仕報告なんて出さない。
でも、福音を伝えたいという情熱が、自分を動かすんです。
これこそ、神に喜ばれる捧げ物だと思います。
僕と僕の家族の人生を狂わせた元凶。
聖書を盾に、権威を振るう、偽予言者。統治体。
統治体に対する怒りや憎しみは、まだ僕の心の中にあります。
統治体を操っている悪魔を、僕は憎んでいます。
肉親と本音で話せないのも、僕が大学へ進学する機会を失ったのも、元凶は統治体。
だから、僕はこれからも、統治体の正体を暴くために闘い続けます。
家族を救い出すまで。
でも、エホバの証人組織の中にいる人々を憎んではいません。
彼らは目をくらまされているのです。
捕らわれの身にある彼らに、僕は心から同情します。
いつか目を覚まし、神の恵みのもとに導かれるよう、いつも祈っています。
エホバの証人を裁く必要なんてありません。
彼らは既に、神の裁きのもとにいるのです。
ですから、僕たちはなんとかして、彼らを救うべく、努力しなければいけないと思っています。
時々、現役エホバの証人が僕のブログにペタを残していかれます。
どういった意図で、こんな背教者のブログを読んだ痕跡を残していかれるのか、僕にはよく分かりません。
彼らが、統治体の言いなりではなく、自分で考え、判断し、行動する自由を求めているのなら、僕は歓迎します。
いまだに組織のロボットになっている人は、僕やこのブログを読む人の「目を覚まさせ」、エホバの証人組織の中に戻ってこさせようとしているのかもしれません。
そんな人は、自分たちの、出版物からのコピペだらけのブログを宣伝することに時間を浪費するくらいなら、レイモンド・フランズの「良心の危機」を読んで出直してきてください。
最後に。
元JWで、現役JWを責め立てる人へ。
もっと彼らの実情を思い、彼らを救い出すため、どんな手でも使いましょうよ。
彼らは統治体の言いなりにならず、元JWがなぜエホバの証人を離れようと思ったのか、知りたいと思っています。
彼らの心に、僕たちの言葉がどれほど響くかは分かりません。
でも、すべてのことを主にゆだね、自分にできることをやりましょうよ。


1Q84 BOOK2 より

図書館で「1Q84」を予約してました。
「ご予約の本が入荷しました!」というので、喜び勇んで図書館に行ってみたら・・・
BOOK1じゃなくてBOOK2でした・・・(´・ω・`)
やっぱ、BOOK1を読んどかないと、いきなりBOOK2を読み始めても???ですねあせる
さて、「証人会」に関するくだりがありましたのでご紹介。
第4章 (天吾)そんなことは望まない方がいいのかもしれない
彼女は今どこで何をしているのだろう? まだ「証人会」の信者であり続けているのだろうか?
そうでなければいいのだが、と天吾は思った。もちろん信仰するしないは個人の自由だ。天吾がいちいち口を出すべきことではない。しかし天吾の記憶によれば、「証人会」の信者であることを、少女時代の彼女が楽しんでいるようにはどうしても見えなかった。
学生時代に酒類卸店の倉庫でアルバイトをしたことがある。給料は悪くないが、重い荷物を運ぶきつい労働だった。一日の仕事が終わると、頑丈なことが取り柄の天吾でさえ、身体の節々が痛くなったものだ。そこにたまたま「証人会二世」として育った青年が二人働いていた。礼儀正しく、感じの良い連中だった。天吾と同じ年齢で、仕事ぶりも真面目だった。手を抜かず、文句も言わず働く。仕事の終わったあとで一度、三人で居酒屋に行って生ビールを飲んだことがある。二人は幼なじみだったが、数年前に事情があって信仰を捨てたということだった。そして一緒に教団を離れ、現実の世界に足を踏み入れた。しかし天吾が見たところ、二人とも新しい世界に今ひとつ馴染めないでいるようだった。生まれたときから狭く緊密なコミュニティーの中で育ったせいで、より広い世界のルールを理解し、受け入れることがむずかしくなっているのだ。彼らはしばしば判断力に自信をなくし、困惑した。信仰を捨てたことで解放感を味わうのと同時に、自分たちが間違った決断を下したのではないかという懐疑を捨てきれずにいた。
天吾は彼らに同情しないわけにはいかなかった。自我がはっきり確立される前に、まだ小さな子供のうちにその世界を離れれば、一般社会に同化できるチャンスは十分ある。でもそのチャンスを逃してしまうと、あとは「証人会」のコミュニティーの中で、その価値観に従って生きていくしかない。あるいは少なからぬ犠牲を払って、自力で生活習慣や意識を作り変えていくしかない。天吾はその二人と話しているときにその少女のことを思い出した。そして彼女が同じような苦痛を味わっていなければいいのだが、と思った。
エホバの証人二世にとって、とても共感できる文章ではないでしょうか。
僕は、20代前半でエホバの証人から離れ、新社会人とほぼ同じ時期に一般社会へ溶け込んでいったため、それほど抵抗なく「より広い世界のルールを理解し、受け入れる」ことができました。
でも、より年齢が高くなるほど、新しい世界に馴染むことは難しくなっていくんでしょうね。。。


“助けて”と言えない ~いま30代に何が~

今夜のNHK クローズアップ現代で、「助けて」と言えない30代について特集されていました。
今年4月、福岡県北九州市の住宅で39歳男性の遺体が発見された。男性は死の数日前から何も食べず、孤独死していたとみられる。しかし、男性は、困窮する自分の生活について、誰にも相談していなかった。いま、こうした命に危険を及ぼしかねない状況に陥っても、助けを求めない30代が増えている。彼らは「家族に迷惑をかけられない」「自分で仕事を見つけ、何とかする」と誰にも相談できずにいる。家族、友人、地域との繋がりを断ち切り、社会から孤立する30代。番組では、厳しい雇用情勢で先行きが見えないなか、静かに広がる「助けて」と言えない30代の実像に迫る。
(NO.2797)
番組内で出てきたのは、
・本来は働き盛りの30代だから、助けを求める=負けを認めることという思い込みから、助けを求められないのではないか
・仕事での挫折などをきっかけに、自分の存在を否定されたように感じ、助けを求めることができなくなっているのではないか
とのことでした。
ところで、(元であれ現役であれ)エホバの証人の皆さんはいかがですか?
「サタンの世の中だから」「どうせ自分を認めてくれる人なんかいないから」と、社会に助けを求めることをあきらめてしまっていませんか?
いつまでも助けに依存しつづける生き方は、もちろん健全とはいえません。
でも、誰だって、傷つき、つまずいたとき、助けを必要とするものです。
会衆の外には、だれも助けてくれる人などいないと、思い込んではいませんか?
そんなことない! と、僕は声を大にして言いたい。
たしかに社会には、利己的な人がたくさんいます。
でも、困った人に助けを差し伸べ、献身的にボランティア活動に従事している人々がたくさんいることも、また事実なのです。
エホバの証人じゃなくても、自己犠牲の愛を示している素晴らしい人たちはたくさんいます。
いえ、むしろ、社会福祉活動に背を向け、自分たちの思い込みに拘泥し「家から家に宣べ伝える」活動に没頭するエホバの証人のほうが、よほど独善的ではないですか?
どうか、「助けて」と言うことを、ためらわないでください。
世の中には、あなたの声を受け止めてくれる人が、必ず存在します。


クレヨンしんちゃん作者・臼井儀人さん転落死事故

ご遺族のコメント

「最後に、私たち家族は将来の希望として、主人と再会できる日を心から楽しみにしております。」
これってエホバの証人関係者なら分かりますよね。復活の希望。
それから、臼井さんが多額の寄付を行っており、自宅の隣に「王国会館」も建っている模様。
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50912732.html

ともあれ、亡くなられた臼井兄弟に哀悼の意を表したいと存じます。
(追記)
週刊誌に載ってるようですね。
「週刊新潮」の中吊り広告を見たら、
クレヨンしんちゃん作者が没頭していたエホバの証人
と、でかでかと見出しがあせる


「風あらしからの隠れ場」となっていない長老たち

J’s World さんから、ペタをつけていただいていましたので、
記事に対してコメントさせていただきます。
「雨あらしからの隠れ場」以上のことを期待しない
http://ameblo.jp/jsworld/entry-10272388119.html
長老たちが「雨あらしからの隠れ場」になってくれるのであれば、
“不完全さ”ゆえにさまざまな欠点を抱えているにせよ、
会衆内で彼らが存在する価値はあったことでしょう。
しかし、「隠れ場」の役目さえ、ろくに果たせない長老を、私は
何人も見てきています。
うつになり、家に引きこもっていた私に対し、長老たちはろくに
牧羊訪問もしてきませんでしたし、何の援助の取り決めも
設けてくれませんでした。
これは、私が実際に経験したことです。
また、多くの元JWのブログを読んでも、日本全国各地に、
そういった長老たちが存在することが明らかになっています。
果たして、彼らは何のために存在するのでしょうか?
彼ら自身の自尊心を満たし、権威を振りかざすためだけにしかみえません。
牧者の役割には、いろいろな面が存在します。
傷を負った羊たちは、優しく抱きかかえられ、油を塗ってもらい、共に祈りをささげてもらうことを
当然期待することでしょう。
羊たちをいやすどころか打ちたたくような「牧者たち」は、神からの裁きを免れないことでしょう。



解散!

さきほどオフ会の二次会を終えて解散しました。
今回集まってくださった皆さん、ほんとうにありがとうございました。
多々不手際がありましたこと、お詫びします。m(_ _)m
次回は、もっと楽しんでいただける会にしたいと思っていますので、もしご都合が合えば、ぜひご参加ください。


元JW 京都オフ会 (7/31)

いよいよ今日、開催です!

日時: 7/31(金) PM19時~21時
場所: 京都駅前 「居酒屋 和利舘」
        京都市下京区塩小路通烏丸西入る東塩小路町577 大将軍ビル4F
        TEL: 075-343-9266
        http://www.daishogun.co.jp/izakaya/index.html
        (ぐるなび) http://r.gnavi.co.jp/k222704/
        (ホットペッパー) http://www.hotpepper.jp/A_20100/strJ000661055.html
予算: 3000円→2000円(コース料理)+ドリンクは別途

mixiの「YHWHを愛してると思ってた」コミュにもイベントトピックを立てていますので
そちらから応募いただいてもOKです。
参加希望、もしくは興味のある方、メール
( joel@exjw2.net ) お待ちしています。

※元JWブロガーの皆様、転載いただけますと助かります。
※6/13 22:10追記  店を予約しましたので、追記しました!
※7/19 03:20修正  「3000円で飲み放題!」と思っていたら、ドリンクは別料金であることが判明。(-_-;
              参加者の皆様には既にメールさせていただいていますが、本当に申し訳ありません。
              m(_ _)m