JW (エホバの証人)一覧

僕にとっての、「エホバの証人」の2つの側面

去る5月10日、僕は大阪市緑橋会衆の長老団にメールを送り、エホバの証人から断絶する旨を伝えました。
名実共に僕はエホバの証人を脱退しました。
いま、僕は自分の思いと決意を、ここに記します。
物心ついた頃からエホバの証人であった両親に育てられ、エホバの証人の会衆に交わってきた僕にとって、「エホバの証人」とは文字通り家族・親族、そして数多くの兄弟姉妹たちです。
両親や弟、親戚。
まだ幼かった僕を我が子のようにかわいがってくださった年配の姉妹たち、
一緒に伝道やスポーツをしてきた兄弟姉妹たち、
そして僕が大会で経験を話した時や演壇に立って講演をしていたときにそれを聴いていた聴衆。
特に京都地域には、僕をよく知る兄弟姉妹がたくさんいます。
それら兄弟姉妹に対する僕の思いは尽きることがありません。今も、そしてこれからも、家族や親族を、そして兄弟姉妹たちを、僕は愛してやみません。
一方、主の導きによって目を開かれて知った、もうひとつの「エホバの証人」組織の側面。
それは、キリストが神であられることを否認し、聖霊の人格を、そして聖霊がクリスチャンひとりひとりに内在してくださることを否定する、まさに福音と神の恵みを否認する「反キリスト」。
巧妙なマインドコントロールで信者の思考を操り、「統治体」とものみの塔協会の出版物だけが唯一の神からの導きであるかのように欺き、度重なる教理の誤謬や戒律の変更を「増し加わる光」と錯覚させ、数多くの人々の人生を狂わせてきた、強大なカルト集団。
取るに足らない存在である僕を、その闇の中から救い出し、真理の光のもとへ導いてくださった主の類まれな愛と驚くべきみ業を思うとき、僕はただ黙ってじっとしているわけにはいかないのです。
パウロがコリント第一9:16で述べたとおり、「もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわい」です。僕は語るのをやめるわけにはいきません。
これからも、エホバの証人がカルトであり、神と福音を正しく理解していないことを、僕は証ししていきます。


うちに伝道に来られましたw

昼下がり、旧宅と行ったり来たりしてる最中…
ピンポーン。
インターホンに出ると、「わたしはクリスチャンのボランティアで…」とかいう、恒例の意味不明な自己紹介。
「雑誌をお渡ししています」とおっしゃるので、たぶん既に手元にあるやつやろな、と思いながら、「入れといてください」と言っときましたw
そしたら…
こんなブロシュアーが。
Seeker
2001年発行らしいですね。
内容はいつも通りでしたw
それにしても、断絶者である僕の家になぜJWが?
区域カードにちゃんとチェックしてないんでしょうかwww


母からのメール

今日、うちの地元の長老から、僕が断絶届を出したことを知らされたようです。
明らかに動揺した様子でした。「生きてる心地がしません」とありました。
僕も胸が張り裂けそうでした。
母は、「母さんの心からの願いはただ一つだけ,長老に霊的回復の援助を求めてエホバと和解すること」とメールしてきました。
僕の返信。
「エホバの証人組織、統治体、長老、いずれも神の導きを受けていません。
彼らはパリサイ人と同じです。
人間的基準で裁きを受けるつもりはありません。
僕はずっと神を愛し、神を崇拝してきました。僕の信仰は幼いときから変わりません。
これからも、僕は神を愛し、キリストを愛し、親と兄弟を愛しています。」
母からは「残念です」とだけ返事が。
やはり平行線のままなんでしょうね…




認知の歪み

最近、認知の歪みという言葉を知りました。
http://www.ncn-k.net/azaz/nintip02_1.htm

1.全か無か思考(all-or-nothing thinking)
 ほとんどの問題は, 白か黒かのどちらかに決めることはできず、事実はそれらの中間にあるものですが、物事を見るときに、「白か黒か」という2つに1つのの見方をしてしまうこと。

2.一般化のしすぎ(overgeneralization)

 1つの良くない出来事があると,「いつも決まってこうだ」、「うまくいったためしがない」などと考えること。
 このような考え方をすると、いやなことが繰り返し起こっているように感じてしまうので、憂うつになってしまいます。
3.心のフィルター(mental filter)
 1つの良くないことにこだわってくよくよ考え、他のことはすべて無視してしまうこと。
 ちょうど1滴のインクがコップ全体の水を黒くしてしまうように。「心のサングラス」ともいう。
 このような思考パターンに陥ると、なにごともネガティブ(良くない方向の考え方)に見てしまうので、気分は、当然暗くなります。
4.マイナス化思考(disqualifying the positive)
 単によいことを無視するだけでなく、なんでもないことやよい出来事を悪い出来事にすり替えてしまうこと。
 「心のフィルター」は、ある出来事のいいことを無視することをいいますが、「マイナス化思考」はよかった出来事や成功したことの価値を引き下げることになり、ますます悪い「認知のゆがみ」のパターンということができます。
5.結論の飛躍(jumping to conclusion)
 特に確かな理由もないのに悲観的・自分は良くないんだ・悲しいというような結論を出してしまう。
 a. 心の読みすぎ(mind reading):ある人が自分に悪く反応したと早合点してしまうこと
 b. 先読みの誤り(the fortune teller error):今の様子は確実に悪くなると決めつけること
6.誇大視と過小評価(magnification and minimization)
 自分の短所や失敗を大げさに考え,逆に長所や成功したことをあまり評価しない。
 「双眼鏡のトリック」とも言う。
7.感情的決めつけ(emotional reasoning)
 自分の感情が現実をリアルに反映して、事実を証明する証拠であるかのように考えてしまうこと。
8.すべき思考(should thinking)
 何かやろうとする時に「~すべき]「~すべきでない」と考える。
 何かをやろうとするときに、常に「~すべき」「~すべきでない」と考えると、その基準に合わせようとして自分自身を追い詰めることになります。
 できなかった場合は、あたかも自分が罰せられたように感じて、自分で自分が嫌いになったり、暗い気分になったりしやすいのです。「すべき思考」を他人に向けると、他人の価値基準とはたいていの場合は合いませんから、それでイライラや怒りを感じることになります。
9.レッテル貼り(labeling and mislabeling)
 ミスや失敗をした時に,「自分は負けだ」、「とんまもの!」などと自分にネガティブなレッテルを貼ってしまうこと。
 レッテル貼りは、「一般化のしすぎ]がはっきりとした形で現れたものです。レッテル貼りをすると、感情に巻き込まれて冷静な判断ができなくなります。
10.自己関連づけ(personalization)
 何か良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合でも自分のせいにしてしまうこと。
 「自己関連づけ」の思考パターンを繰り返すと、罪の意識を感じることになり、その結果自己評価が低下してしまいます。
http://yukitachi.cool.ne.jp/utsu/u62ninchi.html

・認知のゆがみと人格障害・AC(アダルトチルドレン)
  生育歴の関係で人格の形成がうまくいかず、うつ状態でなくても、「自我」が弱まっている人の場合を考えてみましょう。
 このような人は、「自我」が最初から一貫性を保てず、「スキーマ」から「認知のゆがみ」が現れやすくなっています。
 これが「境界性人格障害」や「自己愛性人格障害」、「回避性人格障害」、「依存性人格障害」など、人格障害と呼ばれている人たちです。
 だからこそ、うつ状態に陥りやすいわけですね。
 メンタルヘルス関係のホームページや掲示板等でよく見かけるAC」(アダルトチルドレン)も、親が「アルコール依存」だった、「機能不全家庭」で育ったなど、生育歴が原因で「自我」が弱まっていると考えることができます。つまり、「人格障害」と同様なわけですね。
 したがって、「スキーマ」から「認知のゆがみ」が現れやすく、うつ状態に陥りやすくなります。
 高ストレス状態が続いたことが原因で脳の機能が低下し、精神力がなくなってしまった場合が「うつ病」ですが、「人格障害」や「AC」は、もともと自我の機能が弱体化しているわけです。したがって、うつ病とは違う「病態」(その病気の患者に現れる特徴的な症状と経過)となります。
 たとえば、責任転嫁、他罰的傾向、攻撃行動、強い衝動性、激しい感情の起伏、現実に対する自分本位で身勝手な解釈、記憶の歪曲や脱落などは、うつ病ではほとんど見られない症状です。
 精神力がなくなってしまう「うつ病」とは違い、その行動は時にエネルギッシュです。振り回され、へとへとに疲れきって、まわりの人の方がうつ病になってしまうこともあります。
うちの親父、まさにこれです・・・。
親父は機能不全家庭で育ちました。
親父の精神的傾向として、責任転嫁・他罰的傾向・攻撃行動・現実に対する自分本位で身勝手な解釈などがみられました。
現役JWや元JWにも、これらの傾向を持っている人、いますよね。
本人が自らの「認知の歪み」を自覚し、修正していかないと、自らも「生きづらさ」を抱えたまま生きていくことになるだけでなく、周囲を振り回してしまいます。
JWの教えも、認知の歪みを助長している側面があると、僕は思います。
たとえば「エホバかサタンか思考」とか、「すべき思考」とか・・・。



価値観の違い

ばうちんさんのブログを読んで、自分の価値観形成の過程を振り返ってみました・・・
http://blog.livedoor.jp/gurugurubautin1234/archives/51468659.html

僕の価値観は、親父の影響をむっちゃ受けていました。
親父は「義に過ぎる長老」として有名でしたがw、そんな長老の息子である僕はいわば「ミニ長老」になっていたのでしょう。
自分では意識してへんかったけど、無意識のうちに、会衆内の若い兄弟姉妹を裁いていたりしてたんやろなぁ・・・と思います。
そら、煙たがれて当然やわな。
ガキンチョのころ、会衆内で全然友達ができひんかった。
中学・高校と進むにつれて、義に過ぎる親父に対する反発が強くなってきました。
中学時代から世の子と交際していたのも、
ひとつは親父に対する反発。
もうひとつは、「だれか自分を認めてほしい、受け入れてほしい」という欲求の現れだったんだろうと思います。
高校を卒業し、開拓者&奉仕の僕になり、
親元を離れ、ひとり必要の大きな会衆に移り・・・。
転機が訪れます。
その会衆の主宰監督は、小さいころから顔なじみの兄弟でした。
家がすぐ近所だったこともあり、たびたび食事招待してくださり、時には酒をくみかわしながら、夜遅くまで話し込んだものでした。
恋愛についても話したりしたかなあ・・・
とにかく、その長老の価値観は、同じJWではあっても、親父の堅苦しい価値観とはまったく違う、「道理にかなった」見方でした。
おかげで、「やはり、親父の見方が偏狭なのだ。僕の見方は間違ってはいなかった」と思うようになりました。
でも、僕はうつになり、集会も奉仕も行けなくなりました。
会衆内も含めて、人間関係というものが苦痛で、できるだけ誰ともかかわらないようになりました。
だから、JWを離れて、現役JWとの関係が疎遠になったことで、寂しさよりも、気持ちが楽になりました。
もう、無理して、模範的なJWを演じる必要もない・・・。
孤独感が強くなってきたのは、それから数年後、うつが回復してきたころだったのだろうと思います。
そのころには、社会人としてバリバリ仕事に没頭していました。
開拓奉仕の代わりに、仕事が生きがいになったという感じで・・・。
そんな中で、なかなか出会いもなかったのですが、職場で妻と出会い、あっという間に結婚してしまいました。
新婚当初も、僕は仕事人間でした。
終電まで残業し、休日出勤もしょっちゅうでした。
妻が職場でのいじめに遭い、うつになっていったのですが、僕は忙しすぎて、妻を精神的に支える余裕がありませんでした。
そのうち、僕自身が過労でダウンしてしまいます。
出向していた現場から、自社に戻されました。
でも、心身ともにボロボロの僕は、ろくに仕事もできず・・・
上司も、僕をどう扱っていいか、分からない様子でした。
会社でただ座ってぼおっとしている毎日。
つい数ヶ月前までは終電まで残業していたのに、定時になるとそそくさと帰宅するようになりました。
このころから、ようやく自分と向き合うようになりました。
「JWの何が間違いか、調べてみよう」という気になったのも、このころです。
20代前半のころは、とにかく「宗教に自分の行動を縛られる」ことが嫌で、宗教について考えることも嫌でした。
それに、うつだったので、とにかく考える精神的エネルギーがありませんでした。
あれから10年近く経ち、ようやく精神的余裕もできて、客観的にJWをみることができるようになりました。
「良心の危機」を読んで、「やはり統治体はただの人間なんだ。彼らに自分の生き方を振り回されていた僕はなんと愚かな生き方をしてたんだろう」と思うようになりました。
でも、神に対する信仰まで捨てようという気にはなりませんでした。
とにかくつらかった小学校時代。
学校ではいじめられ、会衆でも孤独で、とにかく毎日が試練でした。
「死んでしまいたい」と思ったこともありました。
それでも、乗り越えてこられたのは、やはり神が自分と共にいてくださったからだという思いがありました。
今から考えれば、不要な制限ばかり加えられていたわけですが、子供だった僕にとっては「迫害を耐えている」かのような思いがありました。
当時、たびたび読んだ聖句が、ヤコブ1:2,3でした。
「わたしの兄弟たち、さまざまな試練に遭うとき、それをすべて喜びとしなさい。あなた方が知っているように、こうして試されるあなた方の信仰の質は忍耐を生み出すからです。」
これまで、いろんな試練を乗り越えてきました。
そのたびに、「自分の力ではこれ以上耐えられない。もう無理だ」と思うたびに、神から力を注いでもらっていたように感じていました。
だから、JWは間違いだとしても、聖書の神は信じていたい。そう思いました。
じゃあ、聖書の神を信じてるのは誰なんだろう?
そんな思いから、教会に行きました。
こうして、今に至ります。
小学校入学と同時に伝道者になり、親に連れられなくても一人で伝道していた僕は、エホバの証人2世の中でも特異な存在なのだろうと思います。
そして、僕の価値観に大きな影響を与えた父についても、僕は親元を離れたことによって客観的にみることができるようになりました。
父が偏ったJWだったことに早く気づくことができたおかげで、僕は自分の価値観を「修正」し、平衡のとれた見方をする必要を認識することができました。
どこまで自分の見方を修正できているかは分かりませんが・・・
ただ、自然消滅して10年近く。いまは、JWの呪縛から解放されて、社会人としての「自分の価値観」を確立できてるかな、と思ってます。
空気を読むのは相変わらず下手かもしれない。でも、いつも自分の心に正直でありたい。そう思っています。


ハイチ大地震・・・これも「終わりの日」のしるし?

阪神大震災から15年となる1月17日を目前にして、13日、ハイチで大地震が発生しました。
ハイチ大地震は阪神大震災と同様、直下型(震源が10km程度と浅い)のため、甚大な被害が発生しています。
しかも震源は、200万人以上が住むといわれる首都ポルトープランスのすぐ近く。
さらに、ハイチが世界有数の最貧国で、建物の耐震設計は不十分。建物の多くは鉄筋が入っていないため、大多数の建物が崩壊、数多くの人々が生き埋めになっています。
いまだ、被害の全貌は把握できていないのが現状です。
今回の大地震は、地震が天災であると共に「人災」としての要素も大きいことを示しています。
最近、静岡で震度5強の地震が発生しましたが、地震対策がしっかりしていたため、被害はごくわずかでした。
エホバの証人は、1914年以降、「終わりの日」のしるしの一つとして「地震が頻発している」とさかんに喧伝していますが、地震の発生回数が増えているのではなく、人口の密集化が進んでいるために都市部で地震が発生したときに被害が甚大になっているのです。
そもそも、地震計が発明されたのが1880年。それ以前に発生した大地震で、観測・記録されていないものは多くあるわけです。
詳しくは、以下を参照ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/thinkJW/koen.htm


懲らしめと愛

小さい子どもを叩くしつけも必要? 米調査で「良い子に育つ割合が高い」。
http://www.narinari.com/Nd/20100112861.html

米国の心理学者が「最後に叩かれたのはいくつのときだったか」という調査を実施。現在の環境と比べ、「叩かれる」ことと成長の関連性を調べる研究を行った。
その結果、全体の4分の1は「全く叩かれた経験がない」ことが判明。そして、全く叩かれたことがない人は、叩かれた経験のある人に比べ「あらゆるポイントで、ほかのグループより悪い結果になった」そうだ。具体的には「反社会的行動や早めの性交渉、暴力やうつ」など、何らかの精神的な問題を抱えやすい傾向が見られたという。
最も良い結果になったのは「2歳から6歳までに叩かれた人」で、次いで「7歳から11歳までに叩かれた人」。ここでの違いは、7歳から11歳までの経験者の方が「よりケンカをしやすい」傾向があったものの、叩かれた経験のない人よりは「進学では成功している」そうだ。
また、英紙デイリー・メールでは、叩かれた経験のある人は「将来設計や生活力、大学での向上心やボランティア作業など、多くの能力に信頼が見られた」と伝えている。ただ、「12歳を過ぎても叩かれた人だけ、否定的な影響を受けると分かった」ともあり、子どもが大きくなってから手を出す場合は、充分な注意も必要らしい。
全体の4分の1が「全く叩かれた経験がない」とのこと。
親が子供に毅然とした態度を取れないのは、実に嘆かわしい風潮ですよね。
しつけをしてもらえない子供がかわいそうです。
子供に対して懲らしめが必要なのは当然のことです。
とくに幼児期は、くどくど説教しても無駄でしょう。
簡潔かつ明快に、正しいことと間違っていることとを教え込むには、時には「むち」を使う必要もあるでしょう。
問題は、子供の成長に合わせて、子供自身の良心や判断力をどうやって育てるか、だと思います。
いつまでも怒鳴りつけたり体罰をしたりしていては思考停止してしまい、良心や判断力が育ちません。
むしろ、子供が納得するまで話し合うほうが必要になってくると思います。
「むち世代」のJW2世の多くが、本来は良心や判断力を育てるべき時期に、体罰や恫喝によって抑圧され続け、その影響がその後の人生の「生ききづらさ」につながっているように思えます。
僕自身、父からの度重なる恫喝のために、自尊心の欠如や「生きづらさ」を感じてきました。
それから、もうひとつ大切なことは、「叱った分の倍、ほめる」ことです。
子供が、無条件に愛されていると感じること、親は自分を愛しているがゆえに自分を正しい道に導こうとしてくれているんだと感じられること、これが大切だと思います。
親が感情にまかせて当たり散らしていては、子供は傷つきます。
親の言うことが一貫していなければ、子供は不安になります。
「あんたはいらない子だ」などと言われようものなら、自尊心の欠如は、子供の人生に大きな悪影響を与えることでしょう。
親の言いつけを聞かなかったりしたとき、「あんたはサタンの子だ」などと罵倒されたJW2世はどれほどいることでしょう。親たちは、その言葉が子供の心をどれほど傷つけているか、分かってないんでしょうね・・・
ちなみに、エホバの証人が用いている新世界訳聖書では、箴言の中に「懲らしめ」という語が30回出てきます。
ところが、新改訳聖書でそれらの聖句を見てみると、「懲らしめ」ではなく「訓戒」と訳されている箇所のほうが多いです。
たとえば、エペソ6:4を、新世界訳と新改訳で比較してみます。
(新世界訳) また、父たちよ、あなた方の子供をいら立たせることなく、エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい。
(新改訳) 父たちよ、あなががたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒とによって育てなさい。
エホバの証人が過度に「懲らしめ」にこだわる一因として、新世界訳において度々「懲らしめ」という語が現れることも関係しているように思います。