キリスト教一覧

ブロガーのブロガーによる罪人(ブロガ-含む)のための集会

行ってきました!!

進藤龍也牧師 は、とってもエネルギッシュな方でした!
晴れるや牧師鈴木健夫さんKenさんひつじちゃんさん にもお会いできました。
yukoさん の賛美、魂を揺さぶられました!
たくさん笑い、たくさん歌い、たくさん祈り、たくさん祝福をいただきました!!
とても貴重なひとときを過ごすことができました。ほんとうに感謝です。


誕生日&礼拝

ハワイ時間では今、19日のお昼前です。
今日で32歳になりました。
今日は朝から、ホノルル・キリスト教会の日本語礼拝に行ってきました。
フラでの賛美があるなど、ハワイらしい礼拝でした。


学び(第一回)

僕の固い頭は、まだまだJWの教理でガチガチに固まってます。
なので、日曜礼拝の説教を聞いても、なかなかストンと心の中に入ってこないというか、ついJWの講演と比較しちゃったりするんですね。
(自分がなまじ公開講演とかしていたばっかりに、余計ですわ…)
そこで、ウィリアム・ウッド先生の「エホバの証人への伝道とフォローアップ」を用いて、個人的聖書研究会をしていただこうと思いました。
宇治バプテスト教会の牧師夫人にお願いしたところ、快諾いただけました。

今日は第一回、「神とはどんなお方か」を学びました。
【学んだ内容】
まず、使徒17:16-31を読みました。
パウロがアレオパゴスで証言した、有名な場面です。
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アテネの人々にとっての「神」は、手でこしらえたものでした。宮という一定の場所に住み、不自由であるため、人の手によって仕えられる必要がありました。人間の技術や工夫によって造られた像のようなものでした。
ちなみにエホバの証人の信じる神は、「偏在性のない」神です。
しかし聖書の神は、時間と空間を超えて、全宇宙にあまねく存在される神です。
エレミヤ23:23,24
「わたしは近くでは神であって、遠くでは神ではないのか」と、エホバはお告げになる。
「あるいは、人は隠れ場所に身を隠して、わたしがこれを見ないようにすることができるのか」と、エホバはお告げになる。
「わたしは天と地に実際に満ちているのではないか」と、エホバはお告げになる。
列王記第一8:27
「それにしても、神は本当に地の上に住まわれるでしょうか。ご覧ください、天も、いや、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの家など、なおさらのことです!」
(上の2つの聖句はいずれも新世界訳です)
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アテネの人々は、神の存在に対する確信がなく、むしろ心の中で宗教的な不安を覚えていました。
そのことは、「知られない神に」と刻まれた祭壇によって証明されています。
多くの人々は、目に見えない神に対して確信がないために、目に見えるものを造ります。それによって、自分は神のために奉仕しているのだからきっと神に認められるはずだ、と心を慰めようとします。人に仕えてもらわなければならないほどに、あるいは人間に理解できるほどに、神を小さな存在とし、その必要を満たしてあげていることを有利な交渉条件として、神に御利益を要求します。
エホバの証人の教理にも、似たようなものがあります。彼らは目に見える組織を強調し、その組織が神にとって不可欠な存在であるかのように教えます。神は、組織を抜きにしては何もできないといいます。また、組織に仕える者は神のご意志を行っているので、必ず地上の楽園に入れてもらえるはずだと主張します。結局JWは、神との個人的な関係を培うよりも目に見える組織に頼ってしまっているわけで、アテネの人々に負けないくらいの偶像崇拝者といえます(^^;
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使徒17:27,28にあるとおり、神は、愛の交わりのために人間を造られました。
 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
 確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
神のご計画は、人間がご自分と共に歩み、その親密な交わりの中で幸せになり、力を得、神の栄光を現す者となることでした。
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神の愛を知らない者は、本当の意味で自分を愛することも他人を愛することもできません。人生の中で、真の幸福を見いだすこともあり得ません。
それに対して、神の愛を体験している者は、心が平安になります。神が共におられることを確信して、大胆に勝利ある人生を歩むことができます。また、自分をありのままで受け入れるように、人を受け入れることができます。
エホバの証人は、とかく神の愛を条件付きのものとしてとらえることが多いです。つまり、自分が神の愛にふさわしい者にならなければならないと考えます。
しかし、聖書は、神の愛が罪人に注がれることを明示しています。
ローマ5:5-8
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定めらた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます
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神が私たちのために計画してくださっている人生とは、神と共に歩む人生祝福に満ち、喜びにあふれる人生です。
エレミヤ19:11-13
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ―主の御告げ― それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
【感想】
「神に受け入れられる人間になろうと努力する必要はない。
ありのままで神の胸に飛び込んでいけばよいのである。
そうして神の愛に触れた結果、愛の人に生まれ変わることができる。
自分をありのままで受け入れるように、人を受け入れることができる」
という箇所に感動しました。
今まで、自分は神に受け入れていただけないのではないか…という不安にさいなまれていましたが、自由にされました。



受難日

復活祭の前の金曜日を「受難日」(聖金曜日)というんですね。
まだまだ勉強中です・・・ φ(.. )



祈祷会

地元の教会で開かれている祈祷会に初めて行ってきました。
そういえば、もうすぐイースターなんですね(^^)
今日、読まれた聖句:
マタイ26:39
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
「わが父よ、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」
※注釈※
罪を知らないキリストが「私たちの代わりに罪とされ」(Ⅱコリ5:21)、
神の怒りとしての死を経験することは、耐えがたいことであった。
この杯-神の憤りの杯で、この場合は十字架の死を指す。
キリストは、御父のみこころのままに、この杯を飲みほそうとされる。
ルカ22:42-44
「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、
わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。
汗が血のしずくのように地に落ちた。
※イエスの苦悩は想像を絶します。人間が耐えられる限度を超えていたのでしょう。
 父は御使いを遣わして御子を励まされます。
 
ヘブル2:9
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。
その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
※イエスが味わわれた死の苦しみがいかばかりだったかを思うとき、
 十字架の救いを備えてくださった神の恵みに対する感謝の念で満たされます。


JWTC移動教室一日目

行ってまいりました。生駒。
朝10時まで名古屋で仕事。
新幹線で大阪まで戻り、電車を乗り継いで生駒山上・宝山寺へ。
駅を降りてからもしばらく迷い、もうへとへと・・・
でも、たくさんの仲間と知り合うことができ、楽しい時間を過ごすことができました。
中澤牧師とお会いすることができたのも大きな収穫です。
今夜は自宅に帰り、明日また山登りします。



カトリック茨木教会セクハラ事件

asahi.com(朝日新聞社):教会で司祭が母娘にセクハラ  – 社会
http://www.asahi.com/national/update/0204/OSK200902040047.html
 大阪府茨木市のカトリック大阪大司教区茨木教会の男性司祭(74)が、同教会に出入りしていた信徒の母子にセクハラ行為をした疑いがあることが同教区への取材でわかった。司祭は同教区の聞き取り調査に対し、キスをするなどの行為を認めたという。
 大阪、和歌山、兵庫3府県のカトリック教会を管轄する同教区によると、司祭は茨木教会に通っていた40代の母親と小学生の女児と親しくなり、教会施設内で母親にキスしたり抱きしめたりするなどのセクハラ行為を繰り返し、昨年12月には母親の目の前で女児にもキスをしたという。母親は同教会の清掃や食事の準備などを手伝い、教会からの賃金を生活費にしていたという。
 母親は今年1月、これらのセクハラ行為を同教区へ申告した。・・・
 同教区は「子どもが関係しているので、客観性を保った調査が必要」とし、弁護士3人で第三者委員会を立ち上げ、関係者から話を聞いている。同教区の担当者は「教会に対する信頼を損なう行為。双方の受け止め方は違うが、うやむやにせずはっきりさせたい」としており、8日に信徒に説明するという。
僕が注目したのは、
 ・司祭の犯罪を通報する上位機関(教区)があること
 ・教区が第三者委員会を立ち上げ、客観性を保った調査を行おうとしていること
 ・信徒に対する説明を設けようとしていること
の3点です。
さて、エホバの証人の長老が同様の行為を犯した場合、どうなるでしょうか。
会衆の成員が誰に通報するのでしょう?他の長老?巡回監督?あるいは支部に直接?
いずれも容易ではないと思われます。
また、加害者の長老に対する聞き取りも当然非公開で行われ、その経過が会衆に報告されることもないでしょう。
こういった制度で、公正な裁きが行われることを期待できるでしょうか。
実際、長老のセクハラ行為に対する訴訟が提起されているようです。
今後の展開に注目したいと思います。