キリスト教一覧

死と復活

ヨハネ11:32-35
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。

ローマ8:26
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

敬愛する友人のひとりであった、植田真理子さんが亡くなられたのが3月。
そして、高澤守牧師が亡くなられたのが5月。

7月には、元JW2世の親友がお母さんをガンで亡くされたそうです。
つい数日前にも、別の元JW2世の友人がお母さんを亡くし、親の死に目にも会えないという不条理に遭遇されていました。

 

今年は、ほんまに辛い出来事が続きました。

イエスさま、聖霊さまが、私たちとうめき、泣いておられる光景が見え、いま、僕も泣いています。

主よ、どうしてですか?

泣きながら祈ってました。

 

すると、ふたつの聖句が与えられました。

エゼキエル18:23

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 

神が死を創造したのではなく、死は神のみこころではないこと。神は生きることを望んでおられること。

そして、死は終わりではなく、始まりであること。

今夜はイエスの降誕を祝う、クリスマス。

イエスさまは、神であったのに、わたしたちのために死ぬために、己を卑しくして人になってくださいました。

イエスの降誕、死と復活。

これこそが、わたしたちの希望です。

 

メリークリスマス!!


強い男。強い神。

自分の「男は~であるべき」観は、親の影響を強く受けてると思う


父は、強い人やった。

弓道をやってたから、腕っぷし強かったし。
理系で、弁の立つ人やったから、父に口答えができひんかった。
手先が器用な人やった。

一方、僕は弱いし、親父みたいに数学得意やないし、不器用なので、コンプレックスがものすごく強かった。

ところが、高校生ごろから、風向きが変わってくる。
理論整然としているように見えた親父の「理屈」のほころびが見えてきた。
当時の僕は記憶力がものすごかったから、親父の主張の矛盾もよく見えた。
今まで言い負かされ、黙っているしかなかった僕が猛然と反抗するようになったので、親父がいたくプライドを傷つけられたようだった。

親父は数年単位で職を転々としてたけど、僕は鬱でぶっ倒れるまで十年近く正社員としてひとつの会社に勤め続けたから、「サラリーマンとしては親父に負けない」と自負するようになった。

そんな自分のプライドが、鬱によって打ち砕かれる。
自分も、父と同じように、弱く、不器用な人間なのだという事実を突きつけられて、すごく凹んだ。


物心ついた頃から、なんとなく「母親のことは、自分が守ってあげなくてはいけない」という意識が強かった。

母から聞いたエピソードで、強烈に覚えていることがある。
僕が3歳のころ部屋の中で遊んでいて手を切り、血がダラダラ流れたことがあったらしい。
親父はハンコ職人をしているから家にいる。
母は父に助けを求めたらしいが、父は仕事に没頭していて、対応してくれなかったらしい。
寒い雪吹きすさぶ中、母は僕を抱いて、病院を探して回ったという

「父は強いけど、自分のことを守ってくれない」という気持ちと、「母は弱いから、自分がしっかりして、母のことを守ってあげなくちゃ」という気持ちが、自分の中に強烈にインプットされた。

そんな僕が、母の意に反してJWを離れることを決めたが、自分の本心をとてもじゃないけど母に打ち明けられなかった。
どれだけ母を失望させ、悲しませることになるか、容易に想像がついたからだ。

JWを離れたあとの僕は必死やった。
「JWを辞めても幸せになれる」ことを、身をもって証明したい気持ちでいっぱいだった。
だから、身を粉にして働き、正社員の地位を獲得し、結婚して独立した。

でも、長続きしなかった。
「弱い母を守ってあげる強い長男」であるべきなのに、親不孝で弱い自分が許せず、耐えられなかった。

「男は強くあらねばならない。女を守らねばならない」という価値観に、がんじがらめになっていたために、すごくしんどかった。


自分が発達障害であるという事実を知って、ようやく、弱い自分を受容できるようになってきた。


 

先日、教会で、「コリントの信徒への手紙 一」の講話を聞いてきた。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(I コリント 1:21)

牧師の講話より。

「神を知る方法には、ふつう2つの方法があります。
第一は、自然界を観察して「神は~のような方である」という結論に至る道です。これは科学の世界であり、下から上に登っていく考え方であり、「神は分かる」という知識を前提としています。
第二の方法は、啓示によって「神は~である」と信じる道であり、上から下へと降ってくる考え方です。これは「神は分からない」という無知を前提としています。キリスト教は、後者の考え方をとります。( Joel 注: エホバの証人は前者の考え方をとっている。「エホバ神を知ることは可能であり、知らねばならない」と教えられている)

神はすべての存在を越えています。存在を越えている者を知ることはできません。
なぜなら認識は、存在物に関わることだからです。仮に、神を知ったとしても、それは神自身を知ったのではなく、それに劣る何か、(-私たちの能力で知ることができるもの-)を知ったにすぎないのです。故に、神を知るためには、<分かる(=高慢)という心を捨てて謙虚にならねばなりません。あまりに光が強いと視覚が失われるように、被造物の知識が過剰になると、神に達するための唯一の道である<無知=謙虚>が失われるからです。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ 1:18)
「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(ヨハネ 11:27)「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(I コリント 2:11)」

・・・

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(25節)

十字架という敗北、弱さ、無力さは一見すると愚かさにみえるけれども、神が人間のために愚かになってくださったということが賢いなさり方であり、人間のために弱くなってくださったことにより、安心して人間は神に近づけるのである。それこそ神の強さである。本当に強い者は弱くなることができる。


 

 

「神を知ることなどできない!」と断言されたこと、かなりショックだった。
考えてみれば、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいころでしょう」(ローマ 11:33)とあったではないか。

そして、「本当に強い者は弱くなることができる」というフレーズがとても印象深かった。
そりゃそうだ。全知全能の神でいらっしゃるのだから、弱さだって障害だって理解しておられる。
うつの者の気持ちだって、障害を持つ者の嘆きだって、神様はご存じではないか。

十字架は、「弱い神」のシンボルであるために、JWにとっては頼りにならへんものかもしれないが、僕にとっては大いに勇気づけられる。感謝である。

 



とおきくにや

今年一年を振り返ったとき、いちばん心に残ったのは、この聖歌でした。
聖歌397 「遠き国や」

1-遠き国や 海のはて いずこに住む 民も見よ
  慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり
(おりかえし)
  慰めもて ながために 慰めもて わがために
  ゆれ動く 地に立ちて なお十字架は 輝けり
2-水は溢れ 火はもえて 死は手拡げ まつ間にも
  慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり
3-仰ぎみれば など恐れん 憂いあらず 罪も消ゆ
  慰めもて 変わらざる 主の十字架は 輝けり
この聖歌は、1923年、関東大震災の夜に作られました。
「揺れ動く 地に立ちて なお十字架は 輝けり」
未曾有の大地震。大津波。そして史上最悪の原発事故。
暗闇の中にあっても、どんなに地が揺れ動こうとも、イエスさまは変わることなく、わたしたちの光、太陽となってくださいます。
今年も、こうしてイエスさまの御降誕をお祝いできるのは嬉しいことです。
皆さんの心に、イエスさまが希望の光として輝いてくださいますように。


あなたの夢は何ですか

カンボジアで宣教されている、ウィルキンス祐子・クリスご家族が、城東キリスト教会に来てくださいました。
http://www.geocities.jp/fmkaisenshienkai/willkins01.html
カンボジアでの宣教・自立支援についてお話を聞いた後、「夢」についての奨励をいただきました。
使徒2:17,21。これはヨエル2:28,32の引用です。
『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。
そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/
若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。
そのとき、主の名を呼び求める者は、/みな救われるであろう』。
「若者たちは幻を見、老人たちは夢を見る」とあります。
若い人も年取った人も、聖霊を注がれた人は皆、夢を見ると預言されています。
では、あなたの夢は何でしょうか。
夢を壊す要素が4つあります。
 1.この世の常識
    家族や親戚、親しい友人ほど、夢破れたときを案じて、否定的なことを言いがちなものです。
 2.環境やしがらみ
    「自分はこの仕事をやらなければならない」「家族の面倒をみなければならない」といったしがらみによって、
    夢の実現をあきらめ、今までどおりの生活に戻ってしまうことがあるかもしれません。
 3.自分自身
    自分には夢を実現させるだけの学歴がない、経験がない、資質がないと思ってしまい、あきらめてしまうことがあるかもしれません。
 4.夢そのもの
    その夢が神から来たものかどうかによって、夢を実現できるかが変わってきます。
    使徒2:21には「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」とあります。
    この目的を達成するため、聖霊はわたしたちに働き続けます。
    自己実現を夢の動機とすること自体は間違いではありませんが、自己実現が第一の動機となっている場合、神はその夢を“壊される”ことがあります。
では、あなたの夢は何か?それを知るためのヒントが3つあります。
 1.神はあなたのすべての好みを用いられる
    自分がやりたいこと、好きなこと、神はそれを用いられます。
 2.神はあなたのすべての経験を用いられる
 3.神はあなたのすべての恐れを用いられる
    恐れがなければ、神に依り頼まなくても、すべて自分の力で実現できてしまいます。
    恐れがあるからこそ、神に依り頼み、そこに神の力が働きます。
そして、あなたの夢を見極めるための手段が4つあります。
 1.直感
 2.みことば
    直感だけでなく、その夢を指し示すみ言葉が与えられるとき、それが神からのものかどうかを見極めることができます。
 3.霊的な先輩
    アドバイスを受けることにより、夢を見極めることができます。
 4.夢の実現のために一歩踏み出すとき、おのずと道が開かれるか
私が子供のころ抱いていた夢は、エホバの証人の宣教者になることでした。
しかし、組織につまずき、教理に疑問を抱き、鬱になったのを機にエホバの証人から離れ、その夢を諦めました。
それからの私は、目の前を生きることだけに必死でした。
社会人になり、結婚し、ささやかな幸せをつかみたいと思っていました。
その後、正社員になり、結婚しました。
夢を実現できたという満足感がありました。
しかし、それも長続きしませんでした。
鬱が再発して仕事を辞めざるを得なくなり、結婚生活も破綻しました。
自分の生きている目的は何なんだろうと自問しつづけました。
そんな中、私は救われ、クリスチャンとなりました。
私の目の前に思いがけず、牧者となるという道が開かれました。
私には、エホバの証人に対して、特に2世に対する強い思いがあります。
クリスチャンになる前から、2世が自立し、自由をつかみ、幸せになってほしい、そのために自分の経験を生かしたいという思いを抱いてきました。
それが私に対するひとつの召しであるという確信が、受洗してから今日に至る2年の間に強くなっていきました。
祈りつつ、みことばを学びつつ、牧師をはじめとして霊的な先輩の方々に相談するうちに、神学校に進む道が指し示されてきました。
改めて献身の誓いを立てた私には、恐れがあります。
自分のような無力で学歴のない者に何ができるというのか。
これから押し寄せる数多の問題に押しつぶされ、また倒れてしまうのではないかという不安は消えません。
しかし、その恐れがあるからこそ、神に依り頼めることを、私は心から感謝しています。
私が自分の力ではなく、神の力によって、神のみこころを実現するために働かせていただけることは、喜びです。


創造と進化 ? 牧会者の視点から

https://twitter.com/#!/p_takeo/status/63133918953607168 より。
創造と進化? ?牧会者の視点から
“Creation, Evol ution, and Christia n Laypeople”
ティム・ケラー(Redeemer Presbyterian Church牧師)
http://biologos.org/uploads/static-content/TimKellerWhitePaperJapanese.pdf

進化に関する科学的な記述と、自分たちの伝統的な神学的信念の間で、どのように折り合いをつけたらいいのでしょうか。キリスト教の求道者や探求者にいたっては、キリスト者以上に当惑しています。キリスト教信仰の大部分に心を惹かれても、「聖書を信じるためには科学を拒絶せよというなら、私にはとても聖書を信じることはできない」と思ってしまうのです。
私自身、同じ戸惑いを抱いていましたので、とても納得できる説明でした。
ぜひご一読なさってみてください。


入会式の証し

今日はイースター礼拝。
そして、入会式がありました。
以下、私の証です。
私はエホバの証人の家庭で育ちました。
5歳のころから聖書を読み、聖書を学んできましたが、エホバの証人だけが真の宗教、真のクリスチャンであると教えられていました。
エホバの証人は聖書を独自に解釈しています。
三位一体を否定し、神様はエホバただひとりであって、イエス・キリストは神ではないと教えています。
また、イエスは十字架ではなく真っ直ぐな杭にかけられた、十字架のルーツは異教なので、十字架を掲げている教会は異教の影響を受けていると教えます。
それで、私にとって十字架は、鳥居やお寺の卍と同じようなイメージ、異教のシンボルだと思っていました。
エホバの証人は、布教活動にたいへん熱心です。
私も、小学校に入学すると同時に伝道者になり、かばんに「ものみの塔」を入れて、家から家を訪ねていました。
そして、小学6年のときにバプテスマを受けました。
将来は宣教者になると心に決めていましたので、先生から大学進学を何度も勧められましたが断り続け、商業高校を卒業した後は、パートの仕事をしながら布教活動中心の生活をしていました。
しかし、エホバの証人の教えは福音とはほど遠いものです。
エホバの証人にとって救いは、ハルマゲドンが来るまでずっとエホバの証人の組織にとどまって、様々な規則を守っていれば得られる「見込み」に過ぎません。
ローマ5:21は「罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」とありますが、エホバの証人が使っている新世界訳聖書では、この箇所が「永遠の命の見込み」となっています。
自分が救われたという確信を持っていないのに布教活動をしなければならず、とてもしんどかったです。
また、父との関係も私にとって大きなストレスでした。
父も祖父から愛されずに育ち、常々「自分はどうやって愛を示せばいいか分からない」と言っているような人でした。
そんな父はエホバの証人の中で「長老」という、会衆における牧師のような立場にありましたが、他の長老との激しく対立し、そのトラブルに私も巻き込まれ、精神的に限界に追い詰められていきました。
20歳のとき、私は実家を離れて京都市内で一人暮らしをはじめましたが、まもなく鬱になって寝込んでしまい、仕事を辞めざるを得なくなりました。
鬱になったのをきっかけに、布教活動に出かけるのもやめ、パートではなく正社員の仕事を探しました。
そのころからエホバの証人としての活動はフェードアウトし、仕事に没頭するようになりました。
ただ、エホバの証人を辞めることは、エホバの証人である家族や仲間との絶縁を意味します。
そのため、正式に脱退することは、当時の私には考えられませんでした。
それから数年経ち、うつもなくなり、バリバリ仕事をこなせるようになりました。
そのころ会社の同僚と結婚しました。
相手の女性はもちろんエホバの証人ではありませんので、母は反対しましたが、反対を押し切って結婚しました。
その後、妻が職場のいじめをきっかけにうつになり、仕事を辞めたあとは完全に家に引きこもってしまうようになりました。
そのころ、私も当時の仕事が多忙を極め、過労からうつが再発してしまいました。
自分も妻も精神的にボロボロになり、誰かに相談したいと思いましたが、反対を押し切って結婚した以上、親に相談することもできません。
そこでふと、「教会に行ってみよう」と思い立ちました。
十字架に対する心理的な抵抗はありましたし、エホバの証人が教えていることはおかしいというのは漠然と感じていましたが、具体的にどこが間違っているのか、本当の福音とは何か、当時の私は全く分かっていませんでした。
そこで、インターネットで検索し、実家の近くにある宇治バプテスト教会を訪ねました。
牧師ご夫妻との対話を通して、またそのころ購入したウィリアム・ウッド先生の「エホバの証人の教えと聖書の教え」といった本を読むことによって、ほんとうの神様はどんな方でいらっしゃるのかを理解するようになりました。
神様に受け入れられる人間になろうと努力しなくても、ありのままで神の胸に飛び込んでいけばよい。
そうして神の愛に触れた結果、愛の人に生まれ変わることができる。自分をありのままで受け入れるように、人を受け入れることができる、と教えられ、「聖書はそんなことを教えていたのか!」という驚きの連続でした。
自分が今までいかに恵みから遠く離れたところにいたのかを知り、インマヌエル「神われらと共にあり」と心から言えるようになりました。
2009年6月21日、須磨海岸で洗礼を受けました。
しかし、その後も試練の連続でした。
私自身、うつから回復するためにしばらく休養が必要な状態でしたが、妻の病状は深刻でした。
もうひとつ、とてもつらかったことは、共に祈れないことでした。
妻は創価学会の家庭で育ち、ご本尊を信仰していました。
結婚する当時は、お互い宗教とは距離を置いて生活していましたので、衝突を避けていましたが、私も妻も限界に追い詰められたとき、私はクリスチャンとして神に祈り、妻はお題目を唱え、宗教の違いが大きな壁になりました。
何度も話し合った結果、このままでは共倒れになってしまう、お互いの回復のために、また、お互いの信仰を尊重するために、離婚に至りました。
妻は実家に戻りましたが、私は実家に戻れませんでした。
実家に戻れば、またエホバの証人に戻ってこいとの圧力をかけられます。信仰を守るために、わたしはエホバの証人から正式に脱退し、ひとり暮らしを始めました。
親とは絶縁状態になりましたが、詩編27:10にあるとおり、「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。 」という言葉を実感しています。
主は私に、たくさんの恵みを注いでくださいました。
ローマ5:3,4にある、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」という言葉に、心からアーメンと言えるようになったことは、本当に感謝です。
子供のころ、将来は宣教者になろうと決めていました。
マタイ12:20の「いためられた葦を折ることがなく、煙っている灯心を消すこともない」という言葉は、私に対する召しだと思っています。
主のみこころであれば、いつか宣教師としてお用いいただければと思っています。
そして、エホバの証人や統一教会をはじめとするカルトで傷ついた人が福音によって癒されるお手伝いができればと思っています。


受難日

「エホバの証人」の記念式は17日でしたが、
教会暦では、昨日が洗足木曜日(「最後の晩餐」)、今日が受難日です。
僕の所属する城東教会では、今日の礼拝はなかったので、都島教会に行ってきました。
「主の葬り」
Seeker - Joel の エホグ-主の葬り
詩編を読み、祈祷をささげ、十字架を先頭に町内を行進。
キリストの死と勝利について、認識を新たにされました。
とても感動しました。



大阪ケズィックコンベンション

会場が自宅の近くだったこともあり、会社帰りに三日間とも参加できました。
たくさんの恵みをいただけました。感謝です。
日曜は礼拝の後、京都復興教会で開かれる京都大会に出席します。
今日に引き続きエイメス師のメッセージが聞けるのが楽しみです。