生い立ち一覧

バプテスマから19年

ふと思い出しました。
1990年1月20日。
19年前の今日、水口の大会ホールでバプテスマを受けました。
当時、20年後の自分なんて想像できませんでした。
きっと楽園が来ているだろうと思ってましたから…
教会で改めて洗礼を受けたほうがいいのかな。
いつになるか分かりませんが…
楽園が来なくても、今は幸せです。
主の恵みに日々感謝です。

僕のJW歴 (7)

既にこの頃には完全な不活発者になっていたので、もはやJW歴とは呼べなくなってきているのですが・・・(^^;
2年ほど大阪勤務していたのですが、途中で合弁会社に転籍させられたり、合弁が解消になったりしたあげく、結局は会社を辞めざるを得なくなりました。
そのころには実家に戻っていたので、実家から近い会社を探したところ、たまたま高校時代の同級生が働いている会社が求人を出していたので、そこに入りました。
同級生はカッティングの仕事をしていて、当初はその仕事を手伝っていたのですが、途中から総務・経理部門のほうを手伝ってほしいといわれ、異動しました。おまけに、若干25歳にして主任にしてもらいました。
従業員百数十人の給与計算から資金移動、銀行・職安・労基・社保事務所などを回っての手続きと、目が回るような忙しさでした。
ほんとうは淡々とルーチンワークをこなしていればよかったんでしょうけど、このころには仕事に没頭するようになり、朝から晩まで、時には泊まり込みで仕事するようになっていました。
そのうち、あまりの忙しさと仕事の重圧に、精神・身体共に限界が来てしまいました。
そんなころ、大阪の会社の元上司から年賀状が届きました。
「今の職場でこのまま事務仕事を続けていくより、IT企業に戻って、改めて経験を積みたい」と思い、元上司に連絡を取ったところ「ぜひ戻ってきてくれ」と言われ、大阪の会社に再入社しました。
こんどは「残業もします」と宣言しました。(^^:
こうして、IT企業の正社員としてようやく身を固めることができました。
さて、僕が大阪の会社に出戻る直前、過労でフラフラになっていたころ、父のほうもいよいよ限界に来ていたようで、ついにJWから断絶してしまいます。
もっと衝撃だったのは、母とも離婚し、家を出ていってしまったことです。
当時、僕のほかに二人、弟がいました。
僕は既に成人しており、上の弟も高校卒業目前だったとはいえ、下の弟はまだ小学校入学前だったので、父が家族を捨てて家を出て行くというのが、僕には全く理解できませんでした。
つい最近になって知ることになるのですが、離婚を切り出したのは今もJWである母だったらしいのです。
それで限界まで追い詰められてしまった父は、すべてを捨てざるを得ないと考えたらしいです。。。
とはいえ、父が出ていってしまったせいで、残された僕が母と弟の家計も支えることになってしまいました・・・


僕のJW歴 (6)

重荷になっていた父のもとを離れ、必要の大きな会衆でひとり暮らし。
希望にあふれていましたが、準備不足も否めませんでした。
仕事は、同じ会社の営業所が引越先にもあったので、引き続き新聞配達をすることに。
ただ、想定外だったのは、自転車に乗って配達するということでした。
それまではカブに乗って配ってましたから。
カブの力を借りれば、百数十部を荷台に積み上げても走れましたが、自転車ではとても無理・・・。
しかも、担当エリアが急な登り坂を含む地域で、一気に体力を消耗。
まもなく、朝がまったく起きれなくなってしまいました。
体力的にも精神的にも限界にきていたようです。
そのまま寝込んでしまい、一日中起きれなくなってしまいました。
母に連れられて精神科に受診し、軽症うつと診断されました。
職を失い、開拓も下りました。
思わぬ挫折に、目の前が真っ暗になった気分でした。。。
体力仕事に限界を感じ、手に職をつけなくてはと思いました。
再び会計事務所で働けないかと探しましたが、面接に落ちつづけました。
じつは、高校卒業後も簿記1級に何度か挑戦していたのですが、受からず、
結局2級どまりでした。
そこで発想を転換し、「せっかく2種を持ってるんだから、コンピュータ関係の仕事を
探そう」と思い立ちました。
職安で、近隣の公共機関でのPCサポートという仕事を見つけ、応募しました。
面接を受けに行ったのは、大阪・梅田の本社でした。
無事採用が決まったのですが、その後まもなく思わぬ連絡が来ました。
「公共機関の仕事、入札に落ちちゃったから、なくなっちゃった」
そんなのあり!?呆然となりました・・・。
そのまま自宅待機させられることになってしまい、どうしようと途方に暮れていましたが、
数日後、再び連絡が来て「梅田の本社で働かないか」と言われました。
京都の自宅から1時間近くの通勤時間でしたが、せっかく仕事が見つかったからと、
梅田へ通いはじめました。
結局、そのまま2年近く、梅田まで通いつづけることになるのですが・・・。
ちなみに、面接のとき、自分がエホバの証人であること、集会のある日は残業できないことを
伝えていました。
(そのおかげで、なかなか仕事が回ってこなかったことに、後に気づくわけですが)
ただ、うつのせいで朝起きて会社に向かうのも一苦労という状態で、集会に交わることに
苦痛を感じるようになります。
必要の大きな会衆で、本来は自分が会衆に仕えなければいけないのに、いまや自分が
「必要の大きな人」になってしまったわけですから・・・。
結局、実家に戻ってきましたが、また驚きの展開が。
僕の家族が、いつのまにか隣の会衆に移っていたのです。
僕がまだ実家にいた当時に、分会(会衆の分割)があったのですが、片方の区域には
長老がひとりも住んでおらず、父もベテラン長老も、ふたりとも越境していたのです。
ところが、前の記事に書いていたとおり、父がベテラン長老と深刻な対立をしてしまい、
「越境を解消して地元に戻る!」と言い出したのです。
ということで、僕の家族は地元の会衆(僕にとっては、元いた会衆の隣の会衆)に
交わることになりました。
会衆を移る際、長老職が自動的に付いて回るわけではありません。
元いた会衆の長老団からの推薦状が必要なのです。
ところが、ベテラン長老はどうもその推薦状を書かなかったらしく、父は地元の会衆で
長老ではなく、ただの一兄弟になってしまいました。
このころから、父は組織に対する不信感を深め、集会にも行かなくなってしまいます。
一方、僕はうつで他人と接触するのに疲れ、しかも慣れ親しんでいた元いた会衆ではなく
地元とはいえ、あまり面識ない人ばかりの会衆に交わることになり、集会への足が
遠のいていきます。
(父のこともあったのですが、当時の僕は自分のことで精一杯で、父のことをあまり深く
考えるだけの気力はありませんでした・・・)


僕のJW歴 (5)

いろいろありましたが、商業高校をなんとか卒業しました。
高校時代の思い出はいろいろあるのですが、今の自分と特に関係あるのが
情報実習室に置いてあったWindows PCとの出会いでした。
僕が入った学科のカリキュラムでは、情報処理の授業は2年と3年に週2時間。
DOSでCOBOLをちょこちょこいじっておしまいという、なんとも時代遅れな内容でした。
僕が最初に学校のPCを触ったのは、販売実習1年目のときでした。
売り子に立つのが嫌だった僕はバックヤード(経理)を選択。
「電卓で手計算なんてありえへん!パソコンで計算できるやろ」と思った僕は、
情報実習室のPCに入ってるLotus 1-2-3で売り上げ集計をやりました。
ワープロ専用機の表計算機能しか知らなかったので、もちろん独学です。
2年目の販売実習も、やはり経理に。
「串刺し演算がやりたい!」と言うと「Excelならできるで」と教えてもらい、
普通は情報処理科の生徒しか使わないWindowsの実習室に入りました。
その後、放課後はWindows・Excelのお勉強に夢中になりました(w
当時、父が会衆で会計の仕事をしており、宗教法人会計のためにB/Sを
作らないといけないということで、Excelで月次計算表を作りました。
その後しばらくして、父と一緒に日本橋へ行き、中古PCを買いました。
Panasonicの一体型PC WOODYが69,800円でした。
それから僕はどんどんPCにのめりこんでいき、現在に至るわけです。。。(w
さて、話を戻します。
卒業と同時に、既定路線通り、正規開拓者になりました。
中学の時も、高校の時も、先生方には「大学に進学しないのか」と度々勧めていただいていたのですが
「宣教者になる」という夢に向かって一直線だった僕の耳には全然届きませんでした。。。
後に、就職活動で壁にぶつかって初めて、学歴というものの大きさに気づいたわけですが。
仕事のほうは、パートで会計事務所へ(週3日)。
JWで鍛えた度胸を生かし、近隣の会計事務所十数件へ飛び込み(^^;
小さな事務所で、のんびり仕事できる環境だったのですが、
なぜか仕事に対する欲が出てきちゃいました(^^;
当時、事務所にあったのは百数十万もするという専用機(オフコン)。
専用OS+専用ソフトだからという理由で、PCよりはるかに劣るスペックのマシンが
こんな高い値段で売られているのか!?と思いました。
(今だから分かることですが、まだ当時(1996年)はWindowsも発展途上で、
会計ソフトなど業務ソフトのWindows化はまだまだ進んでなかったんですよね・・・)
で、ご高齢の所長さんにPC導入を主張するのですが、まったく理解してもらえず、
「こりゃ話にならんわ」と思った僕は、たった1年で会計事務所を辞めちゃいます(^^;;
その後、新聞配達をしながら、車の免許を取りました。
奉仕の僕に任命されたのも、このころだったと思います。
当時は同じ会衆に若い兄弟たちがたくさんいて、たしか奉仕の僕が7,8人いたような・・・
ただ、長老の息子ということで他の若い兄弟からマークされていたのはあるかもしれません。
当時、会衆内に長老はふたりだけ。
もうひとりの長老は超ベテランの兄弟で、巡回大会でも毎回話をするような人でした。
それだけに、昔から目をかけてきた若い兄弟たちには少々甘いところがありました。
そこを鋭く突っ込んでいったのが我が父。
長老間の関係がややこしくなっていき、長老の息子である僕は非常に居心地が悪くなりました・・・
もともと義に過ぎる傾向があり、家族に対しても自分の考えを押しつける傾向のあった父に対して
反発を感じていた僕は、必要の大きな会衆へ移ろうと決心します。
移った会衆は、中学まで僕が在籍していた会衆の、隣の会衆。
いわばふるさとに戻った格好でした。


僕のJW歴 (4)

JW歴というより、恋愛遍歴になりつつありますが・・・(^^;
中2の冬という非常に微妙な時期での転校。
しかも、転校した先はとても荒れていて、僕は不登校になってしまいました。
元彼女とは2,3回手紙を交わしたものの、その後は音信不通になってしまいました。
その後、高校に進学。
同じクラスの子と電車で同乗するようになりました。
朝の電車。学校の最寄り駅までは10分程度なのですが、その子の腕と僕の腕が密着。
僕はもうドキドキです。
電車を降りた後、彼女になんか言われないかと思いましたが、彼女は何も言いません。
ただ笑顔で「おはよう」と挨拶。そのまま話をしながら学校へ。
次の日も、また次の日も。
彼女の笑顔に惹かれたのもあります。
なにより僕にとって衝撃的だったのは、今まで経験したことのない、異性との接触でした。
元彼女とは完全にプラトニックな関係だったから余計かもしれません。
もちろん、付き合い方なんて分かりません。
告白はしたものの逆に気まずくなってしまい、その後の進展はありませんでした。
でも、僕の頭の中は彼女のことでいっぱいでした。
今から考えると余りにも甘酸っぱい、若かりし頃の思い出です。
そして、それまで何の疑問もなく素直にJWとしてのレールに乗っていた僕は、
その頃からJWの制限に対する反抗心が芽生えてきたような気がします。
「なぜ、自由に恋愛できないんだろう」
「なぜ、世の人と友達になってはいけないんだろう」・・・。
一方、高校では資格取得のための勉強に没頭していました。
2年の春に、英検2級を取得。
簿記は、授業より先をどんどん独学し、同じく2年の春に2級を取得。
そして情報処理は、授業は受けてなかったんですが本を買って独学し、
これまた2年の春、2種を取っちゃいました。
プログラミングとか全然興味なかったのですが・・・。
この時、気まぐれで取った2種のおかげで、現在の仕事に就くことになるなんて、
当時の僕には全く予想もできませんでした。
あからた資格を取ってしまった僕は、高校の集団生活に苦痛を感じはじめます。
通信制高校に移りたいとダダをこねました。
結局、あきらめましたが、3年の授業はほとんど寝てました。。。


僕のJW歴 (3)

小6でバプテスマを受けた僕。
中学校に入ってから、そんな僕に転機がやってきます。
担任の先生は20代前半のまだ若い先生だったのですが、僕のことを評価してくれました。
先生に背中を押される形で、僕もクラス内で積極的に発言するようになりました。
小学校時代はいじめられっ子で「自分はだれからも理解されない、自分は孤独だ」と思って
いましたが、自分を理解してくれる人がいわゆる「この世」の中に現れたということで、
自分の「この世」に対する見方が少し変わったような気がします。
もうひとつの転機、それは初恋でした。
バレンタインの日、机の中にチョコレートが入っていたのです。
その子は、クラスでも1,2を争うくらい頭が良く、習字もやっていて字がきれいで、
歌も絵もうまい、とても多才な子でした。ヴァイオリンを習っているとのことでした。
容貌はちょっと変わっていましたが。びん底のような太いめがねをかけ、片方の目は
寄っていました。(後にそれが義眼だったと知るのですが・・・)
運動もとても苦手でした。
でも、僕は彼女に惹かれました。
そのうち、僕は彼女とお互いの気持ちを確かめ合い、つきあい始めました。
つきあうといっても、手をつなぐこともなく、彼女を家まで送るくらいなものでしたが・・・
僕にとって大きな葛藤が生じます。
JWとして、JWでない女の子との交際は許されていません。
僕は彼女に、なんとか聖書を勉強させようとしました。
結局、彼女は僕の求めには応じませんでした。。。
その後、僕と彼女との関係は突然、終わりを迎えます。
僕が引っ越すことになり、転校してしまったのです。。。


僕のJW歴 (2)

小学校に入ると同時に試練が始まりました・・・
といっても、いわゆる「信仰の試練」だけではありません。
学校という共同生活にまったく適応できませんでした。
もともと長男でマイペース、空気を読むのが下手。運動も苦手。
格好のいじめの的でした。
それに、同級生の皆は「ひらがな」が大半の本を読んでいるのに対し、僕は漢字だらけの宗教書を読んでいる上に、家にはTVもファミコンも漫画もないという有様。共通の話題なんて何もない状態でした。
始業式や終業式、校歌斉唱の間は口を真一文字に閉じてじっと耐えていました。
それが「信仰の試み」だと思っていたものです。
小学校入学後、JWとしての最初の試練は、七夕集会のときでした。
先生が皆に「願い事を書いてきなさい」といって短冊を配布したのです。
悩んだあげく、僕は短冊を捨ててしまいました。
翌日、先生にそのことを告げると、先生は激怒。なんと廊下に突き飛ばされてしまいました。
いやぁ、あれはびっくりしましたね。
呆然としたまま、廊下にたたずんでいました。
今から考えると、先生もまだ若く、JWの子供なんて扱ったことがなかったんでしょうね。
まだ小学校1年生の僕の説明も、誤解を生む点が多々あったことでしょう。
振り返ってみると、小学校時代の先生方はあまりJWをご存じではなく、戸惑っておられることが多かったように思います。
そして小学校時代の思い出と言えば、やはり「むち」です。
巡回訪問で「懲らしめのむち」が強調され、その後の会衆ではむちの嵐が吹き荒れました。
僕も、何度もおしりをたたかれました。
でも不思議ですよね。
大人と同じように出版物を読んでいながら、むちのときは子供扱い。
教え諭すなんて余裕は、親にはなさそうでした。
当時、父は奉仕の僕に、母は正規開拓者になり、ふたりとも常に忙しそうでした。
ゆっくり親と向き合い、話をした記憶がありません。
そんな中で、自分の感情を抑圧し、模範的なJWの子供を「演じていた」ような気がします。
一方、学校では気分が悪くなったりすることが多く、よく保健室に行っていました。
今から考えると、小児うつの症状もあったような気がします。
さて、小学校を卒業する直前、僕はバプテスマを受けました。
JWとしてのステップを上っていくことに必死だった僕にとっては当然のことでしたが、
その後の自分の生き方にどれほどの影響を及ぼすかなんて、当時の僕にはとても
理解できませんでした。
まだ思春期にもなっていない子供。自我の自覚もまだありませんでした。
JWとして完全に洗脳され、自分が真理を信じていることに、何の疑いもありませんでした。


僕のJW歴 (1)

僕の母がエホバの証人になったのは、僕が5歳のときでした。
僕は母に連れられて集会に行くようになりました。
当初、父は反対していましたが、後に父も聖書研究を始め、結局夫婦そろってバプテスマを受けました。
父が研究を始めてからバプテスマを受けるまで、わずか1年弱。急成長でした。
一方僕は、両親がバプテスマを受けた2ヶ月後に神権宣教学校に入学。
それから半年後、小学校入学と同時に伝道者になりました。
ちなみに、なぜそんなに早かったのか?
大きな理由は、5歳ごろから漢字を読めていたことです。
そのため、聖書や「ものみの塔」などエホバの証人の出版物を独力で読んでいました。
(もちろん、どこまで内容を理解できていたかは怪しいですが・・・)
そんなわけで、小学校低学年のころから、僕は「親に連れられている」というより、
「自ら聖書を学んでいる」という意識が強かったように思います。
当然、「親に連れられて集会に来ている」同年代と話が合うはずもありません。
会衆内で話し相手といえば、もっぱら年配の姉妹たちだった覚えがあります。


はじめまして。Joelです。

元エホバの証人2世のJoel(ジョエル)といいます。
とはいっても、エホバの証人を完全に脱会したわけではなく、いわゆる“自然消滅中”です。
エホバの証人としての活動から離れて、もう10年近くなります。
当時はまだ20代初め、しかも、うつ病で寝込んでしまい、回復途中だったため、
職に就くのも、会社へ毎日通勤するのも、仕事をこなすのも、大変でした。
精神的に非常に不安定な状態でした。
自分が物心ついた頃から信じてきたものの何を捨て、何を守るのか、
何が正しく、何が間違っているのか、
心の中で整理がついていないまま、日々を送っていました。
そして、今。
3年前に結婚しました。
社会人経験も積んできました。
リストラの嵐が再び吹き荒れる中、今のところは安定した職にありつけています。
ようやく自分と向き合い、心の中を整理しようとしているところです。
そんな僕の思いをつづっていこうと思っています。