生い立ち一覧

強い男。強い神。

自分の「男は~であるべき」観は、親の影響を強く受けてると思う


父は、強い人やった。

弓道をやってたから、腕っぷし強かったし。
理系で、弁の立つ人やったから、父に口答えができひんかった。
手先が器用な人やった。

一方、僕は弱いし、親父みたいに数学得意やないし、不器用なので、コンプレックスがものすごく強かった。

ところが、高校生ごろから、風向きが変わってくる。
理論整然としているように見えた親父の「理屈」のほころびが見えてきた。
当時の僕は記憶力がものすごかったから、親父の主張の矛盾もよく見えた。
今まで言い負かされ、黙っているしかなかった僕が猛然と反抗するようになったので、親父がいたくプライドを傷つけられたようだった。

親父は数年単位で職を転々としてたけど、僕は鬱でぶっ倒れるまで十年近く正社員としてひとつの会社に勤め続けたから、「サラリーマンとしては親父に負けない」と自負するようになった。

そんな自分のプライドが、鬱によって打ち砕かれる。
自分も、父と同じように、弱く、不器用な人間なのだという事実を突きつけられて、すごく凹んだ。


物心ついた頃から、なんとなく「母親のことは、自分が守ってあげなくてはいけない」という意識が強かった。

母から聞いたエピソードで、強烈に覚えていることがある。
僕が3歳のころ部屋の中で遊んでいて手を切り、血がダラダラ流れたことがあったらしい。
親父はハンコ職人をしているから家にいる。
母は父に助けを求めたらしいが、父は仕事に没頭していて、対応してくれなかったらしい。
寒い雪吹きすさぶ中、母は僕を抱いて、病院を探して回ったという

「父は強いけど、自分のことを守ってくれない」という気持ちと、「母は弱いから、自分がしっかりして、母のことを守ってあげなくちゃ」という気持ちが、自分の中に強烈にインプットされた。

そんな僕が、母の意に反してJWを離れることを決めたが、自分の本心をとてもじゃないけど母に打ち明けられなかった。
どれだけ母を失望させ、悲しませることになるか、容易に想像がついたからだ。

JWを離れたあとの僕は必死やった。
「JWを辞めても幸せになれる」ことを、身をもって証明したい気持ちでいっぱいだった。
だから、身を粉にして働き、正社員の地位を獲得し、結婚して独立した。

でも、長続きしなかった。
「弱い母を守ってあげる強い長男」であるべきなのに、親不孝で弱い自分が許せず、耐えられなかった。

「男は強くあらねばならない。女を守らねばならない」という価値観に、がんじがらめになっていたために、すごくしんどかった。


自分が発達障害であるという事実を知って、ようやく、弱い自分を受容できるようになってきた。


 

先日、教会で、「コリントの信徒への手紙 一」の講話を聞いてきた。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(I コリント 1:21)

牧師の講話より。

「神を知る方法には、ふつう2つの方法があります。
第一は、自然界を観察して「神は~のような方である」という結論に至る道です。これは科学の世界であり、下から上に登っていく考え方であり、「神は分かる」という知識を前提としています。
第二の方法は、啓示によって「神は~である」と信じる道であり、上から下へと降ってくる考え方です。これは「神は分からない」という無知を前提としています。キリスト教は、後者の考え方をとります。( Joel 注: エホバの証人は前者の考え方をとっている。「エホバ神を知ることは可能であり、知らねばならない」と教えられている)

神はすべての存在を越えています。存在を越えている者を知ることはできません。
なぜなら認識は、存在物に関わることだからです。仮に、神を知ったとしても、それは神自身を知ったのではなく、それに劣る何か、(-私たちの能力で知ることができるもの-)を知ったにすぎないのです。故に、神を知るためには、<分かる(=高慢)という心を捨てて謙虚にならねばなりません。あまりに光が強いと視覚が失われるように、被造物の知識が過剰になると、神に達するための唯一の道である<無知=謙虚>が失われるからです。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ 1:18)
「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(ヨハネ 11:27)「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(I コリント 2:11)」

・・・

神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(25節)

十字架という敗北、弱さ、無力さは一見すると愚かさにみえるけれども、神が人間のために愚かになってくださったということが賢いなさり方であり、人間のために弱くなってくださったことにより、安心して人間は神に近づけるのである。それこそ神の強さである。本当に強い者は弱くなることができる。


 

 

「神を知ることなどできない!」と断言されたこと、かなりショックだった。
考えてみれば、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいころでしょう」(ローマ 11:33)とあったではないか。

そして、「本当に強い者は弱くなることができる」というフレーズがとても印象深かった。
そりゃそうだ。全知全能の神でいらっしゃるのだから、弱さだって障害だって理解しておられる。
うつの者の気持ちだって、障害を持つ者の嘆きだって、神様はご存じではないか。

十字架は、「弱い神」のシンボルであるために、JWにとっては頼りにならへんものかもしれないが、僕にとっては大いに勇気づけられる。感謝である。

 


生い立ち

7/13,14 の両日、名古屋で JWTCの移動教室が開かれるのですが、そこで時間をいただき、2世としての体験をお話することになりました。
これまでブログに綴ってきた、自分のJWとしての生い立ちを改めてまとめてみました。


私は1977年に生まれました。
祖父は京都でも有名な職人で、長男である父も祖父と同じく職人をしていました。
父も職人としての腕を認められ、我が家は比較的裕福でした。
父にとって長男の私は、自分の跡を継ぐ者であり、当時ひとりっ子だった私は、両親の期待を一身に背負っていました。
ただ、父と私は正反対の性格だったため、父は戸惑うことが多かったようです。
ある日、私がいじめられ、泣いて家に帰ったとき、父は「やり返してこい!」と言いましたが、私は「やり返すくらいならやられたままでいい」と言いました。
また、父はミニカーをたくさん買い与えてくれましたが、私は全く興味を示さず、むしろ公園の草むらに生えている花を見て「綺麗」と言っているような、まるで女の子のような性格でした。
おそらく私は、母に性格が似たのだろうと思います。
母は戦隊モノのアニメなどが嫌いで、私にそういうテレビ番組を見せたりしませんでした。
私自身、そういったものに興味を示すことはありませんでした。
(こういった経緯からして、JWになる前から、私の生来の気質というか性格がクリスチャン的だったと言えるかもしれません)
価値観が正反対の父と母との間には口論が絶えず、幼いながら私は心を痛め、どうすれば家族仲良く、平和になるのだろうと思っていました。
また、幼いころの私は発達障害の傾向もあったようで、落ち着きがなく、人と目を合わせて会話することができず、人間関係を作るのが苦手というか、人間にあまり関心がありませんでした。
そのため、父だけでなく母も私のことをなかなか理解できず、どうやって私を育てたらいいのだろうかと悩んでいたようです。
そんなころ、母がエホバの証人の伝道を受けました。
1982年、私が5歳のときでした。
私も聖書研究を始め、母と一緒に集会に行くようになりました。
父は、自分の「仕事中心の価値観」をJWが否定するので、猛烈に反対しましたが、のちに研究を始めるようになり、職人をやめてサラリーマンになり、両親そろってバプテスマを受けました。
1983年の夏でした。いわゆる「神権家族」になりました。
私は同年の秋に神権宣教学校に入り、翌1984年4月、小学校入学と同時に伝道者になりました。
その後、父は奉仕の僕になり、家族の頭として父が信仰においても率先する立場とはなりましたが、私は父が反対者だったころから聖書を学び、エホバを信じ、自分の意志で神権宣教学校に入りたいと思っていましたので、親に連れて行かれるという意識はあまりありませんでした。
ですから、私は純粋な2世とは言えないのかもしれません。
今から振り返ってみますと、親に依存しない自分の信仰、自分と神との関係を子供のころから培っていたことが、後の救いにつながったように思います。
小学生時代の私は、いわゆる「模範的な」エホバの証人の子供でした。
校歌も歌わず、お祝い事や選挙にも参加せず、伝道に明け暮れていました。
毎年4月になると新しい担任の先生宛の手紙を書き、自分がエホバの証人であること、そのために参加できない行事などについて説明していました。
しかし、いつも「人と違っていなければならない」というのは私にとって苦痛でした。
もともと発達障害の傾向があり、人間関係が苦手な上に、いつもクラスのみんなと違う行動をしなければならず、先生からもなかなか理解してもらえない。
私は学校にいるのがつらく、孤独感にさいなまれていました。
そのころから、いわゆる「小児うつ」の症状が出ていたのですが、当時はまだそういった理解がなかったため、病院に何度か行きましたが原因不明と言われるばかりでした。
小学校6年でバプテスマを受けました。
そして中学校に入学しますが、担任の先生がとても理解のある方で、私の信念を評価してくれました。
私はそれまでずっと自己嫌悪にさいなまれていましたが、担任の先生のおかげで徐々に自尊心を持てるようになり、学校にいることが苦痛ではなくなってきました。
そのころ、同級生のある子のことが好きになりました。
彼女も私に好意を持ってくれましたが、私がエホバの証人であることが壁となり、もちろん親も反対したため、交際は進展しませんでした。
中学2年の冬、私たち家族は京都市内から京都府南部の京田辺市に引っ越しました。
非常に微妙なタイミングで転校したことは、私にとってショックでした。
しかも、転校先の中学校がとても荒れていたため、私は登校拒否になってしまい、ほとんど学校に行かないまま、中学校を卒業しました。
中学校の担任からは高専への進学を勧められたものの、文系の私は理系に興味がなかったことと、当時、神戸高専で剣道の授業を拒否したために退学になったJWがいるという話を聞いた私は、高専に行く気にはなれませんでした。
そのころから、将来は宣教者になって海外に行きたいという夢を抱いていたため、英語の授業が多い、商業高校の国際経済科に進みました。
高校はJWの同級生が多かったです。私は在学中に取れる資格は全部取ろうと猛勉強しました。
そのとき、特に興味もなかった情報処理技術者の資格を取ったのですが、これが後の仕事で生かせることになりました。
ひととおり資格を取ってしまうと、学校に行く目的がなくなってしまい、再び不登校ぎみになってしまいましたが、なんとか卒業できました。
高校在学中も、先生方から何度も大学進学を勧められ、推薦枠に入れるよとも言っていただけましたが、「宣教者になる」という夢は揺るがなかったため、大学に行くなど、とても想像もつきませんでした。
ところが私が卒業した翌年、同じ会衆の長老の娘さんが大学に進学されたため、私はとてもショックを受けました。
そのころ、父は長老になっていましたが、家の中での父は横暴で、とても心から従いたいと思えませんでした。
エペソ6:4にあるとおり、私や弟は父によって「いらだたせられる」ことばかりでした。
何度もむちを受けましたし、言うことを聞かなかった、ちゃんと片付けなかったからと、持ち物を勝手に捨てられることもしばしばでした。
長老は聖霊によって任命されると教えられてはいましたが、私は疑問を覚えていました。
こんな父が、果たして本当に聖霊に導かれているといえるのだろうか、と何度も思っていました。
高校卒業後、私は正規開拓者になり、新聞配達などのアルバイトをしながら伝道に明け暮れていました。
また、父の後押しもあってか、まだ19歳でしたが奉仕の僕に任命されました。
長老である父と一緒に会衆の組織に関わることが増えてきましたが、会衆内の様々な問題を目にするようになりました。
特に、父ともうひとりの主宰監督との対立が深刻だったため、私もその対立に巻き込まれていきました。
父は義に過ぎるところがあり、主宰監督が「甘い」と突っかかることが度々でした。
そのため、私と主宰監督、また他の奉仕の僕たちとの関係もギクシャクするようになりました。
そのころ、元いた会衆の隣の会衆の長老と再会する機会があり、その会衆は奉仕の僕が足りないという話を聞き、私はその会衆に移りました。
毎月のように公開講演や割り当てを果たし、実家の会衆のごたごたからも離れることができ、充実した生活を送ることができる・・・そんな矢先、私は突如うつになって寝込んでしまいました。
新聞配達の仕事も辞めざるを得なくなり、開拓奉仕も降りました。
それまでJWとしてエリート街道まっしぐらだったにもかかわらず、脱落してしまい、目の前が真っ暗になってしまいました。
これから自分はどうしていけばいいのだろうと途方に暮れました。
本来ならば親元に戻って休養すればよかったのでしょうけれど、父が会衆でごたごたを引き起こしている実家に戻っても精神的に余計にしんどくなること、そして実家が経済的に厳しく、親のすねをかじるような余裕が全くなかったことから、実家に戻ることはできませんでした。
抗うつ薬を飲みながら仕事を探し、大阪にあるIT企業に就職しました。
そのころ、中学校の担任から突然連絡がありました。
元彼女が病死したとの知らせでした。
葬式に参列できないため、私は葬式の前日に駆けつけ、遺体と対面しました。
僕は彼女のために何ができたのだろう、もっとずっと一緒にいてあげればよかった、と思うと、後悔と悲しみで涙が止まりませんでした。
自分がエホバの証人であることを心から後悔した瞬間でもありました。
既に奉仕に行かなくなっていましたが、集会に出席することも苦痛に感じはじめ、自然消滅しました。
当時の私の気持ちをまとめますと、おもにふたつ、
 ・うつになって宣教者になる道が閉ざされ、現実と向き合わざるを得なくなり、はじめて自分の将来について真剣に考えるようになった
 ・会衆のゴタゴタに巻き込まれることにより、またその混乱の元凶である父が聖霊によって任命された長老であるという事実から、JW組織に対する信頼を失った
ことが大きかったように思います。
その当時から「エホバの証人情報センター」などのホームページがありましたが、うつで思考能力が低下していた私にはそういったサイトの内容を読んで考えるだけの精神的余裕は全くなく、また、JW組織を否定することはすなわち両親や親しい仲間たちを否定することにも等しかったため、そんな気持ちにはなれませんでした。
その後、実家の会衆内の対立はさらに激しくなり、ついに父は長老を降ろされてしまいました。
そのことに強いショックを受けた父は、断絶してしまいました。
また、以前から母が父をいさめ続け、父を擁護しなかったため、母に対する不信感も爆発させてしまい、離婚してしまいました。
当時、実家には小学校入学直前の弟がいましたが、父は養育費を入れることもなく、家を去っていきました。
そのため、私が母と弟を養わざるを得なくなりました。
私は父を激しく憎み、恨みました。
一方、母に対しても落胆させられることが多々ありました。
私が、いわば「霊性を犠牲にして」仕事して帰ってきているにもかかわらず、母は奉仕に明け暮れ、私が帰宅しても食事が用意されていなかったり、私が仕事に着ていく服が洗濯されていないことも度々でした。
そのころから元JWの方々とインターネットを通じて交流を深めるようになりました。
今まで誰にも打ち明けることのできなかった悩みや葛藤を吐き出すことができ、徐々に気持ちの整理ができるようになりました。
その後、私が28歳のとき、母の猛反対を押し切って、職場の同僚と結婚し、実家を離れました。
ようやく社会人としてまともな仕事に就き、結婚して家庭を持つことができ、私は一般人の幸せをつかめたように思いました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
当時、私は毎日のように深夜まで働き、休日出勤することもしばしばでした。
職場での責任も加わり、過労とストレスのためにうつが再発してしまい、仕事をペースダウンせざるを得なくなりました。
そのころ、妻も職場でのいじめをきっかけにうつになってしまい、私は自分自身を支えてもらいたいにもかかわらず妻を支えなければいけないという、非常につらい立場に置かれてしまいました。
私は途方に暮れました。
だれに相談すればいいのだろう、だれに助けを求めたらいいのだろう。
そのとき、わたしは放蕩息子のように「神様のもとに帰ろう」と思いました。
それから私はエホバの証人に関する本を読みあさり、インターネットで情報収集しました。
そして、実家近くにある宇治バプテスト教会を見つけ、訪ねていきました。
これまでのいきさつについて牧師夫人にお話すると、姉妹はぽろぽろと涙を流し、「今までほんとにつらかったよね」と言ってくださいました。
それから、姉妹との学びを通して、イエス・キリストは被造物ではなく神であられること、救いは将来の見込みではなく十字架によって既に完成されたものであることを理解することができました。
私は小学生のころから「誰も自分を助けてくれないけど、神様は必ず自分のことを見ていてくださって、助けてくださる」と信じていました。
今から思えばあのころから、まだ私は気づいていませんでしたが、聖霊は私と共にいてくださったように思います。
私がJW組織を離れることを決意したときも、「神様がおられるなら、私がJWを離れてどこに行くべきか、示してくださるに違いない」という確信がありました。
主が私の心の叫びに確かにこたえてくださり、導いてくださったことに、心から感謝してやみません。
私は2009年6月21日、「父と子と聖霊との名において」洗礼を受けました。
現在は大阪城東キリスト教会に交わっております。
今年の聖会で、私は献身の決心をいたしました。
エホバの証人をはじめとするカルトで傷ついた人たち、心を病んでいる人たちを救うため、みこころであればこの小さな器をお用いいただきたいと考えております。


父への怒り

子供のころ受け続けた虐待の傷は、なかなか癒えない。
父にどなられ、殴られ、絶え間なく精神的に追い詰められたトラウマは、そう簡単に消えない。
父が母や弟を捨てて家を出て行き、別の女と一緒になったとき、父への憎悪は頂点に達した。
でも、怒りや憎しみは周囲の人々を傷つけ、自らを蝕んでいく。
僕自身、怒りに振り回されて生きることに疲れた。
自分も結婚し、少しは父に感情移入できるようにもなった。
7年間、音信不通だった父と再会した。
還暦が近づいた父は、すっかり老いぼれていた。
哀れでさえあった。
そんな父が、自らの非業を悔いることなく未だに被害者面していることに、怒りを通り越してあきれ果ててしまった。
父の改心を期待した僕がバカだったと思い知らされた。
父のことは神にゆだねようと心に決めた。
父への尊敬を失ったわけじゃない。
父らしくしてほしいという期待もある。
期待するからこそ、父親としての責任から逃げ続ける父に対する怒りを覚える。
でも、かたくなな心が砕かれるのは簡単なことじゃない。
父が変わろうとしない限り、あるいは神のみ手が父に及ばない限り、父は変わらないだろう。
だから、父への怒りがこみ上げるたびに、僕は祈る。
「神よ、父のことはあなたにゆだねます。僕が善をもって悪に打ち勝てるよう、僕に力を与えてください」


父と母(2)

幼いころを思い返すと、親が自分のことをなかなか理解できず悩んでいた様子を、子供ながらに感じていたように思います。
母曰く、幼いころADHDだったことも関連があるかもしれません。
母はよく「会話するときに目が合わない」と言いました。
中学に入ったころには目を見て話せるようになってましたが・・・。
父も、僕の「男らしくない」性格を理解できず、悩んでいたようです。
戦隊物とか、全く興味がありませんでした。
父と一緒に公園に行っても、ボール遊びより花を見てるほうが好きでした。
友達とけんかして泣いて家に帰ったとき、まだJWになる前の父は「やり返してこい!」と言いましたが、僕は拒否したらしいです。
親が自分と接するときに戸惑っている様子を子供ながらに感じていた僕は、親の期待に過度にこたえようとする傾向が働き、“優等生”でなければというプレッシャーにつながったように思います。
弟が生まれたことにより、さらに“兄”という肩書きが加わりました。
また、親もJWの活動に多忙な日々を送るようになったため、コミュニケーションはさらに希薄になっていき、強い孤独感を覚えるようになりました。
精神的に常に背伸びし、“小さな大人”と呼ばれてました。
やはり無理をしてたんでしょうね。
僕が大人になる過程は、“小さな大人”から“ふつうの大人”になっていく過程でした。
小さいころからさんざん「協調性がない」と言われていた僕が“ふつうの大人”になっていこうとすることは、“妥協”の連続でもあったかもしれません。
そして、うつで倒れ、JWの“出世街道”から落伍した時が、人生の転換点になりました。
それでも、JWと決別することは考えられませんでした。
僕が寝込んでいた間、母は毎日のように僕の下宿まで来てくれました。
何十kmもの道のりを、時には日に2回来てくれることさえありました。
そんな母の支えがなければ、僕は自殺していたかもしれません。
母にはいくら感謝しても足りません。
そんな母の「JWに戻ってきてほしい」という願いに、僕はこたえることはできませんでした・・・。
僕が背教者となったことで、母がどれほど心を痛めているかを思うと、とてもつらいです。
でも、自分の良心を偽ってJWにとどまることはできませんでした。
いつか母が、僕の信仰を理解してくれる日が来ることを願っています。


父と母

「JW2世」といっても、いろんな2世がいます。
母はJWだけど、父は未信者のパターンが多いですね。
その父も、反対者の場合と理解者の場合。
一方、両親ともにJW(いわゆる「神権家族」)の場合。
いずれの場合にせよ、両親の夫婦関係や、子供に対する接し方が、2世の心に大きな影響を与えるように思います。
僕の場合、父が反対者だった時代 → 両親共にバプテスマ → 父が長老になるも、会衆内でトラブルを多発させ母が苦悩・・・というプロセスを経てきました。
6歳まで一人っ子だった僕は、母親べったりでした。
母は沖縄出身で、中学卒業と共にパスポートを持って内地へ。
全寮制の定時制高校に入り、昼間は働き、夜は仕事をしていました。
そんな母は標準語を話していたため、僕が話すのも標準語。よく友達に「おまえは関東の子か?」と言われたものですw
次男が小さいころからバリバリの関西弁を話していた影響を受けて、母や僕まで関西弁に染まっていくのですが・・・w
母から、小さいころの話をよく聞かされていたおかげで、一度も行ったことがない沖縄に対して強い愛着を抱くようになりました。
また、戦争や平和について強く意識するようになったのも、母の影響が強いような気がします。
母の兄姉が、対馬丸に乗って亡くなった話。
母方の祖父が、不発弾が暴発して亡くなった話。
母が父と口論しては母が涙するのを度々目撃してきた僕は幼いころから「母を守らなきゃ」という思いが強かったように思います。
弟が生まれてから、僕はすっかり変わりました。
母にべったりだったのが一転しました。
兄として、しっかりしなきゃという意識を強く持っていました。
母と違い、父が幼少期について話すことはめったにありませんでした。
父にとっては思い出したくないことが多かったのでしょう。
父が好きな本は「巌窟王」だと言っていました。
今にして思えば、父の生きる力となってきたのは強い復讐心だったのだろうかと思います。
たまに実家に行っても、父と祖父が口論するのが常でした。
祖父からかわいがられた記憶もありません。
祖父と父とに共通していたこと。
自分の気が済むまで、夜中になろうが延々と話を続けること。
そして、自分の考えを押しつけてくることでした。
父が母と一緒にバプテスマを受け、父からの反対がなくなったのはうれしいことでした。
でも、父の高圧的な態度は、JWになってからも変わりませんでした。
父に対する強い反発心を抱きつつも、面と向かって反抗することもできず、「自分がJWとして自立すること」に関心が向いていったような気がします。
結果的にはそれが、親に依存しない僕自身の信仰を培うことにつながっていったのかなと思います。
バリバリ仕事をこなし、会衆でも精力的に働く父。
力でも論理でもかなわないと思っていた父。
そんな父を越えたいという思いが、自分の行動に大きな影響を及ぼしていたような気がします。
両親が離婚し、父が小学校入学前の三男を見捨てて家を出たとき、父に対する怒りを抑えられませんでした。
父から電話がかかってきましたが、「地獄に落ちろ!」と吐き捨てて電話を切りました。
一年後、友人と車に乗っていたとき、たまたま父が乗った車をみかけました。
やつれた父を見て、「父もこの一年、苦悩してきたのだろうか」と思いました。
それから数年。
正社員になり、会社での評価も得、結婚。
ひとりの社会人として自立できるようになったという自信が、父に対する感情を変えていきました。
その後、父と再会しましたが、今なお被害者意識にとらわれている父を見て、哀れに思えました。
自分は過去の奴隷じゃない。
親からの影響はあるにせよ、自分の人生は、自分で選んできたもの。
これからの人生も、自分で選んでいく。
そう思えるようになったとき、自分の心に長い間巣くってきた闇が晴れていったように感じました。
今も、JWや親に対する怒りを抑えられない2世は多いと思います。
心がいやされる過程には人それぞれ違いがあり、要する時間も違うことでしょう。
しかし、いつまでも怒りの犠牲でいることを許してしまったら、トラウマから解放される道を自分で閉ざしてしまうことになると思います。
怒りを乗り越え、愛をもって怒りを征服するとき、心のいやしと真の自由への道が開けていくと思います。


ヒロシマ

広島原爆投下から64年。
僕の祖父は当時、志願兵として広島に配属されていました。
たまたま祖父ら若い兵士は山間部に疎開させられていたため、
祖父は原爆で命を失わずに済みました。
原爆投下直後に入った広島の光景は、祖父にとって非常に衝撃的だったそうです・・・
今年も、核廃絶への祈りは続きます。
唯一の被爆国として、また、私自身、被爆者3世として、ヒロシマを忘れてはならない、
風化させてはならないとの思いを新たにしています。


夏休みの思い出

夏休みに入りましたね~。
皆さんご家族でお出かけの計画を立てられているんでしょうか。
エホバの証人2世だった僕にとって、夏休みといえば「補助開拓奉仕」、つまり月に60時間を伝道に費やしました。
あれは…たしか小学校四年生の夏。
毎日のように自転車で出かけては、朝から夕方まで伝道していました。
8/31、60時間を達成できたときは嬉しかったものでした…。
当時はまだバプテスマを受けていなかったので、個人的な目標としての60時間だったのですが、だからよけいに達成感があったのかもしれません。
中学・高校時代も補助開拓をしていましたが、当時のことは、すっかり忘却のかなたに消えてしまっています。
ただ純粋に「伝道しなければ!」という使命感に燃えていた小学生時代が、奉仕をしていていちばん楽しかったように思います。
もの珍しさからか、同情からか、雑誌を受け取ってくれる人もけっこういましたし。
大きくなるにつれて、だんだん家の人の反応も悪くなり(時代背景的にも、カルト問題が社会でクローズアップされてきたこともあるのでしょう)、奉仕へのモチベーションが下がっていきました。
あと、夏休みの思い出といえば何だろう…
会衆のレクレーションで、京都市北部の山中でキャンプをしたことや、日本海に泳ぎに行ったことでしょうか。
あと、家族や親戚と琵琶湖に行ったこともあったな…
いずれも、おぼろげな記憶です(^^;)


1984年

村上春樹の新刊「1Q84」がベストセラーになっているそうですが・・・
1984年。
うちの家族にとっても、いろんなことがあった年でした。
その前年、1983年の地域大会で、父母はそろってバプテスマを受けました。
そして、1984年の2月、僕の6歳下の弟が生まれます。
ずっと「弟がほしい」と願っていた僕にとっては、とても嬉しかった出来事でした。
1984年4月。
僕が小学校に入学する直前、引っ越しをしました。
それまで父は自営で印章彫刻業をしていましたが、JWになると同時に廃業、サラリーマンになりました。
収入も大幅に下がったため、マンションからアパートに引っ越したんです。
そして僕は、小学校入学と同時に伝道者になりました。
母は、幼い弟をおんぶしながら、開拓奉仕をしていました。。。
・・・あれから25年。
弟は去年結婚し、家を建て、もうすぐ父親になります。
あのころは僕がひきずって歩いていた赤ちゃんだったのにねぇ。懐かしいです・・・
弟は未信者のままです。
一方、僕はバプテスマを受けたものの、JWを辞めました。
あのころ、「自分が大人になるまでにハルマゲドンが来る」と思ってたけど、
ハルマゲドンは来なかった。
僕も弟も、JWという特異な環境の中で育ちましたが、ふたりとも、まともな社会人になれました。
お父さん、お母さん。
あなたたちは人生をJWにささげていたから、僕たちのために何も用意できなかったよね。
でも、だからといってあなたたちを恨んではいません。
これまで育ててくれたこと、感謝しています。
母は今でも熱心なエホバの証人だけど、いつも僕のことを気遣っていてくれると信じています。
父は、この不況のまっただ中、苦労して働いています。
来年、還暦を迎えますが、まだまだ働かないといけなさそうです。
ちなみに、「1Q84」。
「証人会」という名前で、エホバの証人が出てくるそうですね。
読んでみたいです・・・


心の傷

すみません・・・昨日のセミナーについて記事にしなくてはと思いつつ、今日は別の話題です。
深い心の傷を負った人を、どうすればいやせるのでしょう。
会うたびにその人は、自分の受けた仕打ちを、苦しみを吐露します。
延々と・・・何時間も・・・際限なくと思えるときさえあります。
いくら吐き出しても吐き出しきれないくらい、深い闇が心の中に広がっているようです。。。
彼は、父から愛情を受けずに育ちました。
彼の父は次男でした。
長男のほうがよい扱いを受け、愛されていることをねたんでいました。
そして自分の長子に対し、「長男」へのねたみの感情をぶつけたのです。
無条件に愛され、認められるべき存在である子供を、不満のはけ口にしたのです。
彼は、「自分は誰からも愛されない」という絶望感にさいなまれ、ボロボロになり、やけくそになっていました。
しかし、そんな彼を必要とする女性が現れました。
ふたりは結婚しました。
彼は、自暴自棄になっていた自分を懸命に生きるよう励まし、家庭としての居場所を与えてくれた妻に対し、言葉では言い尽くせない感謝の気持ちを抱いていました。
しかし時は経ち、妻は事あるごとに夫を責め、追い詰めるようになります。
彼は次第に逃げ場を失い、自分の居場所を失います。
そしてふたりは離婚しました。
彼はすべてを失いました・・・。家庭も、そして自尊心をも。
僕は、彼に対してどう接すればいいのだろうかと思いあぐねています。
彼は、僕の父です。
僕は、父を尊敬し、愛してきました。
愛されずに育ち、愛し方を知らない不器用な父は、不器用にしか子供を愛せませんでした。
僕たち子供はそんな父に傷つけられ、ときには追い詰められました。
幼い頃は、ただ従うしかありませんでした。
でも、大きくなってから、おもいっきり反抗しました。
父にとっては、子供から自分を否定されたかのように感じたのかもしれません。
でも、僕たち子供は、いくら反抗しようとも、心の中では父のことを誇りに思ってきました。
父はいつも自分たちを愛してくれていることを信頼していました。
父が家族を捨てて出ていったとき、その信頼は揺らぎました。
しかし、父と再会して、決して父が冷血漢ではなかったのだと知りました。
父は愛に飢え、傷つき、深い悲しみの中にいることを知りました。
そんな父に、僕は何ができるのでしょう・・・
父は、母とかかわるのはもうこりごりだと思っています。
そして、祖父に対しては、母に対する以上の怒りと憎しみと絶望の気持ちを抱いています。
父の心の闇は、果てしなく深いように思えます。。。


元恋人との死別

以前の記事 – 僕のJW歴 (3) で、中学時代の彼女について書いていましたが、じつはその続きがあります。
高校時代(たしか2年の秋だったと思うんですが)、その彼女から突然、電話がかかってきました。
音沙汰がなくなってからすでに2年ほど経っており、僕はただあっけにとられていたのですが、彼女が「会いたい」というので、彼女と会う約束をしました。
京阪 出町柳駅前で彼女と待ち合わせ、一緒に鴨川を歩きました。
どんな話をしたのかもよく覚えていないのですが、彼女は「もうすぐ手術を受けるんだ」と言っていました。
大人になった今では、わざわざ元彼を呼び出して打ち明けるくらいなんだから、その手術が命にかかわるくらいのものであることが想像できるというものですが、まだまだお子ちゃまだった僕にはそんな洞察力など全くなく、「ふぅ~ん、そうなんだ」と受け流しちゃいました。
僕のJW歴 (4) に書いていたように、高校に入ってからようやく「異性」というものを意識しはじめていた僕には、中学時代の彼女はあまり異性として意識していなかったせいもあるかもしれません。
これから大手術を受けようとしている彼女がどれほど切迫した状況にあるか、その当時の僕には知るよしもありませんでした・・・。
それから4年ほど経過して、僕が必要の大きな会衆に移り、ひとり暮らしを始めたものの、うつになって倒れてしまった後のことです。
中学時代の担任から突然、電話がかかってきました。
彼女が亡くなったとの知らせでした。。。
僕は「エホバの証人なので通夜・葬儀に参列できないので」と、通夜の前日に、彼女の遺体と対面させてもらいました。
初めて、彼女の額に触れました。
とても冷たかったです・・・。
彼女が生きているうちに、なぜ彼女を抱きしめてあげなかったんだろう、
キスしてあげなかったんだろう、
彼女のすべてを受け止めてあげられなかったんだろう・・・と、後悔の念がこみあげて仕方ありませんでした。
その後、担任の先生から聞かされたのですが、彼女は生まれつき脳に腫瘍があり、すでに片眼を失っていたのでした。
その腫瘍が進行していき、高校の時に大手術を受けて肥大化した腫瘍を切除しなければいけなくなったのでした。
手術は成功し、彼女は東京の音楽大学に入学したそうです。
しかし、その後も腫瘍は再発し、ついに彼女は失明してしまい、病状が悪化するにつれてひとりで歩くこともできなくなったのでした。
それでも彼女は友達に支えてもらいながら大学に通いつづけたそうです。
彼女は亡くなるまで、自分の夢をあきらめず、ひたすら前を向いて走り続け、20年の人生を完全燃焼させました。
彼女の死は、僕にとって大きな衝撃でした。
人生について、今を生きる意味について、考えさせられました。
当時まだうつだった僕は、生きる気力を失いつつありましたが、彼女が僕を励ましてくれているように思いました。
彼女の分まで僕が生きなくては・・・、
彼女を愛してあげられなかった分、将来伴侶となる人を愛してあげなくては・・・
と思いました。
「世界の中心で愛を叫ぶ」とか「恋空」とか、映画を見ると僕は彼女のことを思い出します。
映画のような甘酸っぱい思い出は、僕と彼女の間にはほとんどありません。
僕がエホバの証人でなければ、もっとたくさんの思い出を作れていたのではないかと思います。
僕から若いJW2世にアドバイスするとすれば、「若いうちに存分に恋愛せよ!」と声を大にして言いたいですね。(^^;