生い立ち

7/13,14 の両日、名古屋で JWTCの移動教室が開かれるのですが、そこで時間をいただき、2世としての体験をお話することになりました。
これまでブログに綴ってきた、自分のJWとしての生い立ちを改めてまとめてみました。


私は1977年に生まれました。
祖父は京都でも有名な職人で、長男である父も祖父と同じく職人をしていました。
父も職人としての腕を認められ、我が家は比較的裕福でした。
父にとって長男の私は、自分の跡を継ぐ者であり、当時ひとりっ子だった私は、両親の期待を一身に背負っていました。
ただ、父と私は正反対の性格だったため、父は戸惑うことが多かったようです。
ある日、私がいじめられ、泣いて家に帰ったとき、父は「やり返してこい!」と言いましたが、私は「やり返すくらいならやられたままでいい」と言いました。
また、父はミニカーをたくさん買い与えてくれましたが、私は全く興味を示さず、むしろ公園の草むらに生えている花を見て「綺麗」と言っているような、まるで女の子のような性格でした。
おそらく私は、母に性格が似たのだろうと思います。
母は戦隊モノのアニメなどが嫌いで、私にそういうテレビ番組を見せたりしませんでした。
私自身、そういったものに興味を示すことはありませんでした。
(こういった経緯からして、JWになる前から、私の生来の気質というか性格がクリスチャン的だったと言えるかもしれません)
価値観が正反対の父と母との間には口論が絶えず、幼いながら私は心を痛め、どうすれば家族仲良く、平和になるのだろうと思っていました。
また、幼いころの私は発達障害の傾向もあったようで、落ち着きがなく、人と目を合わせて会話することができず、人間関係を作るのが苦手というか、人間にあまり関心がありませんでした。
そのため、父だけでなく母も私のことをなかなか理解できず、どうやって私を育てたらいいのだろうかと悩んでいたようです。
そんなころ、母がエホバの証人の伝道を受けました。
1982年、私が5歳のときでした。
私も聖書研究を始め、母と一緒に集会に行くようになりました。
父は、自分の「仕事中心の価値観」をJWが否定するので、猛烈に反対しましたが、のちに研究を始めるようになり、職人をやめてサラリーマンになり、両親そろってバプテスマを受けました。
1983年の夏でした。いわゆる「神権家族」になりました。
私は同年の秋に神権宣教学校に入り、翌1984年4月、小学校入学と同時に伝道者になりました。
その後、父は奉仕の僕になり、家族の頭として父が信仰においても率先する立場とはなりましたが、私は父が反対者だったころから聖書を学び、エホバを信じ、自分の意志で神権宣教学校に入りたいと思っていましたので、親に連れて行かれるという意識はあまりありませんでした。
ですから、私は純粋な2世とは言えないのかもしれません。
今から振り返ってみますと、親に依存しない自分の信仰、自分と神との関係を子供のころから培っていたことが、後の救いにつながったように思います。
小学生時代の私は、いわゆる「模範的な」エホバの証人の子供でした。
校歌も歌わず、お祝い事や選挙にも参加せず、伝道に明け暮れていました。
毎年4月になると新しい担任の先生宛の手紙を書き、自分がエホバの証人であること、そのために参加できない行事などについて説明していました。
しかし、いつも「人と違っていなければならない」というのは私にとって苦痛でした。
もともと発達障害の傾向があり、人間関係が苦手な上に、いつもクラスのみんなと違う行動をしなければならず、先生からもなかなか理解してもらえない。
私は学校にいるのがつらく、孤独感にさいなまれていました。
そのころから、いわゆる「小児うつ」の症状が出ていたのですが、当時はまだそういった理解がなかったため、病院に何度か行きましたが原因不明と言われるばかりでした。
小学校6年でバプテスマを受けました。
そして中学校に入学しますが、担任の先生がとても理解のある方で、私の信念を評価してくれました。
私はそれまでずっと自己嫌悪にさいなまれていましたが、担任の先生のおかげで徐々に自尊心を持てるようになり、学校にいることが苦痛ではなくなってきました。
そのころ、同級生のある子のことが好きになりました。
彼女も私に好意を持ってくれましたが、私がエホバの証人であることが壁となり、もちろん親も反対したため、交際は進展しませんでした。
中学2年の冬、私たち家族は京都市内から京都府南部の京田辺市に引っ越しました。
非常に微妙なタイミングで転校したことは、私にとってショックでした。
しかも、転校先の中学校がとても荒れていたため、私は登校拒否になってしまい、ほとんど学校に行かないまま、中学校を卒業しました。
中学校の担任からは高専への進学を勧められたものの、文系の私は理系に興味がなかったことと、当時、神戸高専で剣道の授業を拒否したために退学になったJWがいるという話を聞いた私は、高専に行く気にはなれませんでした。
そのころから、将来は宣教者になって海外に行きたいという夢を抱いていたため、英語の授業が多い、商業高校の国際経済科に進みました。
高校はJWの同級生が多かったです。私は在学中に取れる資格は全部取ろうと猛勉強しました。
そのとき、特に興味もなかった情報処理技術者の資格を取ったのですが、これが後の仕事で生かせることになりました。
ひととおり資格を取ってしまうと、学校に行く目的がなくなってしまい、再び不登校ぎみになってしまいましたが、なんとか卒業できました。
高校在学中も、先生方から何度も大学進学を勧められ、推薦枠に入れるよとも言っていただけましたが、「宣教者になる」という夢は揺るがなかったため、大学に行くなど、とても想像もつきませんでした。
ところが私が卒業した翌年、同じ会衆の長老の娘さんが大学に進学されたため、私はとてもショックを受けました。
そのころ、父は長老になっていましたが、家の中での父は横暴で、とても心から従いたいと思えませんでした。
エペソ6:4にあるとおり、私や弟は父によって「いらだたせられる」ことばかりでした。
何度もむちを受けましたし、言うことを聞かなかった、ちゃんと片付けなかったからと、持ち物を勝手に捨てられることもしばしばでした。
長老は聖霊によって任命されると教えられてはいましたが、私は疑問を覚えていました。
こんな父が、果たして本当に聖霊に導かれているといえるのだろうか、と何度も思っていました。
高校卒業後、私は正規開拓者になり、新聞配達などのアルバイトをしながら伝道に明け暮れていました。
また、父の後押しもあってか、まだ19歳でしたが奉仕の僕に任命されました。
長老である父と一緒に会衆の組織に関わることが増えてきましたが、会衆内の様々な問題を目にするようになりました。
特に、父ともうひとりの主宰監督との対立が深刻だったため、私もその対立に巻き込まれていきました。
父は義に過ぎるところがあり、主宰監督が「甘い」と突っかかることが度々でした。
そのため、私と主宰監督、また他の奉仕の僕たちとの関係もギクシャクするようになりました。
そのころ、元いた会衆の隣の会衆の長老と再会する機会があり、その会衆は奉仕の僕が足りないという話を聞き、私はその会衆に移りました。
毎月のように公開講演や割り当てを果たし、実家の会衆のごたごたからも離れることができ、充実した生活を送ることができる・・・そんな矢先、私は突如うつになって寝込んでしまいました。
新聞配達の仕事も辞めざるを得なくなり、開拓奉仕も降りました。
それまでJWとしてエリート街道まっしぐらだったにもかかわらず、脱落してしまい、目の前が真っ暗になってしまいました。
これから自分はどうしていけばいいのだろうと途方に暮れました。
本来ならば親元に戻って休養すればよかったのでしょうけれど、父が会衆でごたごたを引き起こしている実家に戻っても精神的に余計にしんどくなること、そして実家が経済的に厳しく、親のすねをかじるような余裕が全くなかったことから、実家に戻ることはできませんでした。
抗うつ薬を飲みながら仕事を探し、大阪にあるIT企業に就職しました。
そのころ、中学校の担任から突然連絡がありました。
元彼女が病死したとの知らせでした。
葬式に参列できないため、私は葬式の前日に駆けつけ、遺体と対面しました。
僕は彼女のために何ができたのだろう、もっとずっと一緒にいてあげればよかった、と思うと、後悔と悲しみで涙が止まりませんでした。
自分がエホバの証人であることを心から後悔した瞬間でもありました。
既に奉仕に行かなくなっていましたが、集会に出席することも苦痛に感じはじめ、自然消滅しました。
当時の私の気持ちをまとめますと、おもにふたつ、
 ・うつになって宣教者になる道が閉ざされ、現実と向き合わざるを得なくなり、はじめて自分の将来について真剣に考えるようになった
 ・会衆のゴタゴタに巻き込まれることにより、またその混乱の元凶である父が聖霊によって任命された長老であるという事実から、JW組織に対する信頼を失った
ことが大きかったように思います。
その当時から「エホバの証人情報センター」などのホームページがありましたが、うつで思考能力が低下していた私にはそういったサイトの内容を読んで考えるだけの精神的余裕は全くなく、また、JW組織を否定することはすなわち両親や親しい仲間たちを否定することにも等しかったため、そんな気持ちにはなれませんでした。
その後、実家の会衆内の対立はさらに激しくなり、ついに父は長老を降ろされてしまいました。
そのことに強いショックを受けた父は、断絶してしまいました。
また、以前から母が父をいさめ続け、父を擁護しなかったため、母に対する不信感も爆発させてしまい、離婚してしまいました。
当時、実家には小学校入学直前の弟がいましたが、父は養育費を入れることもなく、家を去っていきました。
そのため、私が母と弟を養わざるを得なくなりました。
私は父を激しく憎み、恨みました。
一方、母に対しても落胆させられることが多々ありました。
私が、いわば「霊性を犠牲にして」仕事して帰ってきているにもかかわらず、母は奉仕に明け暮れ、私が帰宅しても食事が用意されていなかったり、私が仕事に着ていく服が洗濯されていないことも度々でした。
そのころから元JWの方々とインターネットを通じて交流を深めるようになりました。
今まで誰にも打ち明けることのできなかった悩みや葛藤を吐き出すことができ、徐々に気持ちの整理ができるようになりました。
その後、私が28歳のとき、母の猛反対を押し切って、職場の同僚と結婚し、実家を離れました。
ようやく社会人としてまともな仕事に就き、結婚して家庭を持つことができ、私は一般人の幸せをつかめたように思いました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
当時、私は毎日のように深夜まで働き、休日出勤することもしばしばでした。
職場での責任も加わり、過労とストレスのためにうつが再発してしまい、仕事をペースダウンせざるを得なくなりました。
そのころ、妻も職場でのいじめをきっかけにうつになってしまい、私は自分自身を支えてもらいたいにもかかわらず妻を支えなければいけないという、非常につらい立場に置かれてしまいました。
私は途方に暮れました。
だれに相談すればいいのだろう、だれに助けを求めたらいいのだろう。
そのとき、わたしは放蕩息子のように「神様のもとに帰ろう」と思いました。
それから私はエホバの証人に関する本を読みあさり、インターネットで情報収集しました。
そして、実家近くにある宇治バプテスト教会を見つけ、訪ねていきました。
これまでのいきさつについて牧師夫人にお話すると、姉妹はぽろぽろと涙を流し、「今までほんとにつらかったよね」と言ってくださいました。
それから、姉妹との学びを通して、イエス・キリストは被造物ではなく神であられること、救いは将来の見込みではなく十字架によって既に完成されたものであることを理解することができました。
私は小学生のころから「誰も自分を助けてくれないけど、神様は必ず自分のことを見ていてくださって、助けてくださる」と信じていました。
今から思えばあのころから、まだ私は気づいていませんでしたが、聖霊は私と共にいてくださったように思います。
私がJW組織を離れることを決意したときも、「神様がおられるなら、私がJWを離れてどこに行くべきか、示してくださるに違いない」という確信がありました。
主が私の心の叫びに確かにこたえてくださり、導いてくださったことに、心から感謝してやみません。
私は2009年6月21日、「父と子と聖霊との名において」洗礼を受けました。
現在は大阪城東キリスト教会に交わっております。
今年の聖会で、私は献身の決心をいたしました。
エホバの証人をはじめとするカルトで傷ついた人たち、心を病んでいる人たちを救うため、みこころであればこの小さな器をお用いいただきたいと考えております。

コメント

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    すばらしい証です。
    しかしJWって、家庭も壊し人間も壊しますね。
    私自身も大変だったと思っていますが
    みんなの経験を聞くと、もっと大変だったのだと。