2010年09月一覧

母に電話

4ヶ月ぶりに母に電話をかけてみた。
留守電になったが、折り返し電話がかかってきた。
5分ほど話した。
少しでも母を安心させたかった。
母の心の内は分からない。
でも、声を聞いて少し安心した。
沖縄の祖母も元気とのこと。
ほんまによかった。


父への怒り

子供のころ受け続けた虐待の傷は、なかなか癒えない。
父にどなられ、殴られ、絶え間なく精神的に追い詰められたトラウマは、そう簡単に消えない。
父が母や弟を捨てて家を出て行き、別の女と一緒になったとき、父への憎悪は頂点に達した。
でも、怒りや憎しみは周囲の人々を傷つけ、自らを蝕んでいく。
僕自身、怒りに振り回されて生きることに疲れた。
自分も結婚し、少しは父に感情移入できるようにもなった。
7年間、音信不通だった父と再会した。
還暦が近づいた父は、すっかり老いぼれていた。
哀れでさえあった。
そんな父が、自らの非業を悔いることなく未だに被害者面していることに、怒りを通り越してあきれ果ててしまった。
父の改心を期待した僕がバカだったと思い知らされた。
父のことは神にゆだねようと心に決めた。
父への尊敬を失ったわけじゃない。
父らしくしてほしいという期待もある。
期待するからこそ、父親としての責任から逃げ続ける父に対する怒りを覚える。
でも、かたくなな心が砕かれるのは簡単なことじゃない。
父が変わろうとしない限り、あるいは神のみ手が父に及ばない限り、父は変わらないだろう。
だから、父への怒りがこみ上げるたびに、僕は祈る。
「神よ、父のことはあなたにゆだねます。僕が善をもって悪に打ち勝てるよう、僕に力を与えてください」


父と母(2)

幼いころを思い返すと、親が自分のことをなかなか理解できず悩んでいた様子を、子供ながらに感じていたように思います。
母曰く、幼いころADHDだったことも関連があるかもしれません。
母はよく「会話するときに目が合わない」と言いました。
中学に入ったころには目を見て話せるようになってましたが・・・。
父も、僕の「男らしくない」性格を理解できず、悩んでいたようです。
戦隊物とか、全く興味がありませんでした。
父と一緒に公園に行っても、ボール遊びより花を見てるほうが好きでした。
友達とけんかして泣いて家に帰ったとき、まだJWになる前の父は「やり返してこい!」と言いましたが、僕は拒否したらしいです。
親が自分と接するときに戸惑っている様子を子供ながらに感じていた僕は、親の期待に過度にこたえようとする傾向が働き、“優等生”でなければというプレッシャーにつながったように思います。
弟が生まれたことにより、さらに“兄”という肩書きが加わりました。
また、親もJWの活動に多忙な日々を送るようになったため、コミュニケーションはさらに希薄になっていき、強い孤独感を覚えるようになりました。
精神的に常に背伸びし、“小さな大人”と呼ばれてました。
やはり無理をしてたんでしょうね。
僕が大人になる過程は、“小さな大人”から“ふつうの大人”になっていく過程でした。
小さいころからさんざん「協調性がない」と言われていた僕が“ふつうの大人”になっていこうとすることは、“妥協”の連続でもあったかもしれません。
そして、うつで倒れ、JWの“出世街道”から落伍した時が、人生の転換点になりました。
それでも、JWと決別することは考えられませんでした。
僕が寝込んでいた間、母は毎日のように僕の下宿まで来てくれました。
何十kmもの道のりを、時には日に2回来てくれることさえありました。
そんな母の支えがなければ、僕は自殺していたかもしれません。
母にはいくら感謝しても足りません。
そんな母の「JWに戻ってきてほしい」という願いに、僕はこたえることはできませんでした・・・。
僕が背教者となったことで、母がどれほど心を痛めているかを思うと、とてもつらいです。
でも、自分の良心を偽ってJWにとどまることはできませんでした。
いつか母が、僕の信仰を理解してくれる日が来ることを願っています。