不従順

従順」という言葉、嫌いです。
僕が小学生だった頃、親から頭ごなしに怒られるのがしょっちゅうでした。
自分の意志も良心も感情も黙殺され、親の良心や価値基準を押し付けられるのが耐えられなかった。
はやく大人になりたかった。はやく一人前と認められて、自分の良心を尊重してもらえることを求めていた。
だから、小6でバプテスマを受けた。
でも、状況は変わらなかった。
僕が高校生になっても、父は相変わらず頭ごなしに父の価値基準を振りかざしてきた。
怒りが限界に来ていた僕は、猛然と父に反抗した。
父は狼狽していた。でも、僕の心の叫びを理解できなかった。
成人し、奉仕の僕に任命されても、やはり父は自分のものさしを僕に押しつけてきた。
もはや、僕は疲れ果てていた。心は完全に折れていた。
そして…親元を離れ、ようやく父の束縛から自由になった時、溜まっていた膿があふれ出すかのように、僕は鬱の大波に飲み込まれていった…
僕の心は金属疲労を起こしていた。
あとに残ったのは…権威に対する嫌悪。従順に対する嫌悪。
自分を認めてもらわないと気が済まない、自分の意志に反する要求に対して過敏に反抗する、インナーチャイルド。
そのことに、ようやく気づきました。
心の傷を負ったことは仕方ないとはいえ、いつしか僕の心に深く根を張っていた「高慢」という罠に、僕は自ら捕らわれ、もがいていました。
職場でも、自分の納得できない要求に堪えられず、反発することがしばしばありました。
イエスの「わたしのくびきを負いなさい。わたしがあなたをさわやかにしてあげましょう」(マタイ11:28,29)という招きの意味を、実は理解できていませんでした。
イエスは、ありのままの僕を受け止めてくださる。
イエスが僕の心の傷をいやしてくださることを信じ、イエスに従う道を歩むとき、さわやかさを経験できる。
そのことを悟ったとき、心の重荷が、すぅーっと軽くなったように感じました。