2009年10月一覧

上京

本日、1泊2日で東京へ行きます。
帰りは明日最終の新幹線になる見込み。
帰阪はあさって未明になります。


1Q84 BOOK1 読了

図書館で借りた、「1Q84 BOOK1」を読み終わりました。

改めて感じたのは、「証人会」、つまり「エホバの証人」について具体的かつ詳細に記述されていることです。

これは単なる空想小説というより、「エホバの証人」のカルト性への警鐘という意味も込められているのではないか、とさえ僕には思えます。

(注意! まだ1Q84をお読みになっていない方へ。 以後、ネタバレだらけですw)

中澤啓介牧師の読後評にも載っていますが、
http://jwtc.info/modules/newsletter/index.php?content_id=18

例えば、ものみの塔の聖書解釈と終末論については次のように解説している。
「その女の子の両親は『証人会』という宗教団体の信者だった。キリスト教の分派で、終末論を説き、布教活動を熱心におこない、聖書に書いてあることを字義通りに実行する。たとえば輸血はいっさい認めない。だからもし交通事故で重傷を負ったりしたら、生き延びる可能性はぐっと狭まる。大きな手術を受けるのもまず無理だ。そのかわり世に終末が訪れたときには、神の選民として生き残ることができる。そして至福の世界を千年間にわたって生きることができる。」(一巻、270頁)
あるいは、エホバの証人の子供たちが学校でどのような問題に直面するかをも見事に描いている。
「彼女が『証人会』信者であることはクラスの全員が知っていた。彼女は『教義上の理由』からクリスマスの行事にも参加しなかったし、神社や仏教の寺院を訪れるような遠足や修学旅行にも参加しなかった。運動会にも参加しなかったし、校歌や国歌も歌わなかった。そのような極端としか思えない行動は、クラスの中でますます孤立させていった。」(一巻、272頁)
・・・これらは、僕自身も経験したことです。

輸血拒否というこの団体の最大の問題については、老婦人の口を通してこう語らせる。
「私の正直な意見を述べれば、『証人会』はまともな宗教とは言えません。もしあなたが小さな子供の頃に大きな怪我をしたり、手術を要する病気にかかったりしていたら、そのまま命を落としていたかもしれません。聖書に字義的に反しているからといって、生命維持に必要な手術まで否定するような宗教は、カルト以外の何ものでもありません。それは一線を越えたドグマの乱用です。」(一巻、434-5頁)
さらに著者は、この輸血拒否の教えに対してエホバの証人の子供たちが置かれている位置について、次のような解説を続ける。
「青豆は肯いた。輸血拒否の論理は、『証人会』の子供たちがまず最初に頭にたたき込まれることだ。神の教えに背いた輸血をして地獄に堕ちるよりは、清浄な身体と魂のまま死んで、楽園に行った方が遥かに幸福なのだ。子供たちはそう教えられる。そこには妥協の余地はない。・・・子供たちには批判能力が具わっていない。そのような論理が社会通念的にあるいは科学的に正しいかどうか、知りようもない。子供たちは親から教わったことを、そのまま信じ込むしかない。・・・」(一巻、435頁)
輸血だけではない。ものみの塔が異教的な祭りを拒否していることについても、次のようにふれる。
「聖書の教えにどこまでも忠実な『証人会』の熱心な信者である両親は、あらゆる世俗の祭りを軽蔑し、忌避した。」(二巻、432頁)

さらに小説は、幼いときにものみの塔の信仰を強要される悲劇を明らかにする。
青豆が伝道のために母親に連れられて歩く姿は(一巻、271頁)、もしエホバの証人が読むなら、この描写はそのまま自分の追体験になるはずである。それは、「どれほど深く子供の心を傷つけるものか」(一巻、273頁)と叫ばざるを得ない経験なのである。
青豆が傷として残っている「いじめの(正確には、いじめられた)経験」を、小説は次のように描く。
「そのときに一人の男子が『証人会』の布教活動をしていることで彼女を揶揄した。家から家をまわり、馬鹿げたパンフレットを渡して回っていることで。そして彼女のことを『お方さま』と呼んだ。それはどちらかといえば珍しい出来事だった。というのは、みんなは彼女をいじめたり、からかったりするよりは、むしろ存在しないもの(原文は傍点)として扱い、頭から無視していたからだ。」(一巻、274頁)

「もし両親が『証人会』の信者でなかったとしたら、彼女はごく当たり前の女の子として育ち、みんなに受けいれられていたことだろう。きっと仲の良い友だちもできていたはずだ。でも両親が『証人会』の信者であるというだけで、学校ではまるで透明人間のような扱いを受けている。誰も彼女に話しかけようとしない。彼女を見ようとさえしない。」(一巻、275頁)
エホバの証人の子供たちは、組織(そして親)から「世の友になってはいけない」と教えられ、クラスでは孤立する立場を選ばざるを得ない。それがいじめに発展する。そのときに起こる内面的葛藤は、おそらく経験者でない限り分からない。だが、この小説に知るされている村上の描写は、まるで、二世たちのプログを読んでいるような錯覚に陥らせる。

しかも、この記述は、12章の天吾を扱った記録の中に置かれ、その前後の11章や13章における青豆の行動をもたらす遠因になっているかのような書き振りである。その両章では、青豆とその仲間のあゆみが、度を越えた放縦なセックスをもてあそんでいる。あゆみには、そういう行動に出ざるを得ないような不幸な(レイプの)経験が少女時代にあった。青豆にも、同じではないが、少女時代にいじめの経験があった。それは精神的なレイプと同じなのだ、著者はそう言いたかったように見える。

青豆は、10歳のときに信仰を捨てたにもかかわらず、幼いときから植え付けられたものみの塔の呪縛に縛られ続けている。それは彼女が、とんでもないところで「王国の到来について思いを巡らせ」たり(一巻、236頁)、場違いなところで王国について話たり(例えば一巻、345、353頁)、祈りの言葉を発してしまうことことの中に見られる(二巻、151、156頁)。
「そのあとで、目を閉じて、いつものようにお祈りの文句を唱えた。その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということが大事なのだ。」(一巻、66頁)
「躊躇なく、冷静に的確に、王国をその男の頭上に到来させた。彼女はそのあとでお祈りさえ唱えた。祈りの文句は彼女の口からほとんど反射的に出てきた。」(一巻、302頁)
三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。青豆は、幼い頃の宗教的な刷り込みが大人になっても消えないことを、カルト教団の教祖深田との会話の中で確認している。
「あなたは子供の頃、『証人会』の信者だったと聞いている」
私が選んで信者になったわけではありません。信者になるよう育てられただけです。そこには大きな違いがあります
「たしかにそこには大きな違いがある「と男は言った。「だが幼い頃に植え付けられたイメージから、人は決して離れることはできない
「よくも悪くも」と青豆は言った。(二巻、193頁)

青豆は、幼いときに受けた宗教的トラウマから、「家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たち」を嫌悪する(一巻、204頁)。彼女が受けたトラウマは、物理的な暴力というより、彼女の精神を呪縛してしまう有言・無言の周囲の圧力だった。
「だから彼女は両親を憎み、両親が属している世界とその思想を深く憎んだ。彼女が求めているのはほかのみんなと同じ普通の生活だった。・・・一刻も早く大人になって両親から離れ、一人で自分の好きなように暮らしたかった。」(一巻、328頁)
「もちろん『証人会』の内部で実際にレイプに巻き込まれるようなことはなかった。少なくとも彼女の身には、性的な種類の脅威は及ばなかった。まわりにいた『兄弟・姉妹』は、みんな穏やかで誠実な人々だった。しかし正しい動機がいつも正しい結果をもたらすとは限らない。そしてレイプというのは、肉体だけがその標的となるわけではない。暴力がいつも目に見えるかたちをとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ。」(一巻、433頁)

「自由意志に基づいて」と言いながら、「・・・するはずです」とか「・・・と考えるはずです」といった記述が、ものみの塔の出版物には度々みられます。まさに詭弁です。

自分の意志で選択しているかのような錯覚を与えながら、考え方や行動の仕方が細かく縛られているのです。

そして最後に、この小説が、ものみの塔は家族関係を破壊してしまうカルトだと述べていることに注目しておこう。カルト教団の教祖を殺害するため青豆を雇った老婦人は、青豆がカルトがらみの傷を負っていることを指摘する。
「あなた自身が少女時代に、カルトがらみの心の傷を負っていることは承知しています。あなたのご両親は熱心な『証人会』の信者だったし、今でもそうです。そしてあなたが信仰を捨てたことを決して赦そうとはしない。そのことが今でもあなたを苦しめている。」(一巻、434頁)
青豆は、自分の家族について振り返ってこう言う。
「青豆には四歳年上の兄がいた。おとなしい兄だった。彼女が決意して家を出たとき、彼は両親の言いつけに従い、信仰をまもって生活していた。今どうしているのだろう。しかし青豆は家族の消息をとくに知りたいとも思わなかった。彼らは青豆にとって、もう終わってしまった人生の部分だった。絆は断ち切られてしまったのだ。十歳より前に起こったことを残らず忘れてしまおうと、彼女は長いあいだ努力を続けてきた。私の人生は実際には十歳から開始したのだ。それより前のことはすべて惨めな夢のようなものに過ぎない。そんな記憶はどこかに捨て去ってしまおう。しかしどれだけ努力をしても、ことあるごとに彼女の心はその惨めな夢の世界に引き戻された。自分が手にしているもののほとんどは、その暗い土壌に根を下ろし、そこから養分を得ているみたいに思えた。どれほど遠いところに行こうと試みても、結局はここに戻ってこなくてはならないのだ、と青豆は思った。」(一巻、485頁)

「十歳の時、私が信仰を捨てると宣言してからは、母親はいっさい口をきいてくれなくなった。必要なことがあれば、メモに書いて渡した。でも口はきかなかった。私はもう彼女の娘ではなくなった。ただの『信仰を捨てたもの』に過ぎなかった。それから私は家を出た。」(一巻、524頁)
「ご存知だとは思いますが、私はわけがあって両親を捨てた人間です。わけがあって、子供の頃に両親に見捨てられた人間です。肉親の情みたいなものとは無縁な道を歩むことを余儀なくされました。・・・」(二巻、24頁)
カルトは、家族の絆より、組織の絆を優先させる。だから、エホバの証人の世界では、脱会した人とは、例え家族であっても口をきくことを許さない。この小説は、青豆の歩んだ道をたどりながら、ものみの塔信仰が家族を引き裂いてしまう様子を実にリアルに描いている。

僕自身、同じ経験をしました・・・。

家族の絆より組織の絆が優先される事態に直面したときの絶望感は、計り知れません・・・。

小説『1Q84』は、ものみの塔・エホバの証人の問題を他にもいろいろな方面から取り上げている。
この小説をひとつのきっかけとして、エホバの証人のカルト性に、ひとりでも多くの人が気づいてくれることを願います。


夕拝

今日も憂鬱だったのですが、頑張って行ってきました。
教会に着いたときは、鬱ですっぽり覆われているかのようでした。
賛美の最中も、手拍子を打つ元気がありませんでした。
でも、賛美をしているうちに、祈りをしているうちに、
メッセージを聞いているうちに、聖霊様の働きを感じました。
礼拝が終わるころには、心が軽くなったような気がしました。
礼拝後、牧師に祈ってもらいました。
仕事のこと、家族のこと、JWのこと・・・
たくさんの重荷がありますが、主がいつも共にいてくださり、支え、導き、祝福してくださいますように。
祈りには、ほんとうに大きな力があります!
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 (ヤコブ 5:14-16)


真の自由を求めて ― 僕の闘い

最近、いろいろありまして…
改めて思ったこと。
僕がエホバの証人から離れたのは、自由を求めていたからです。
「宗教なんか懲り懲りだ」と思っていた20代、自由を謳歌しましたが、どこか虚しさを感じていました。
急に不安になったり、寂しさに耐えられなくなったりもしました。
クリスチャンになった今、真の自由の意味を改めて考えています。
何が正しい、何が間違いと、いちいち白黒つける必要なんてない。
奉仕しろと強いられることもない。
開拓者なんて肩書きもいらない。奉仕報告なんて出さない。
でも、福音を伝えたいという情熱が、自分を動かすんです。
これこそ、神に喜ばれる捧げ物だと思います。
僕と僕の家族の人生を狂わせた元凶。
聖書を盾に、権威を振るう、偽予言者。統治体。
統治体に対する怒りや憎しみは、まだ僕の心の中にあります。
統治体を操っている悪魔を、僕は憎んでいます。
肉親と本音で話せないのも、僕が大学へ進学する機会を失ったのも、元凶は統治体。
だから、僕はこれからも、統治体の正体を暴くために闘い続けます。
家族を救い出すまで。
でも、エホバの証人組織の中にいる人々を憎んではいません。
彼らは目をくらまされているのです。
捕らわれの身にある彼らに、僕は心から同情します。
いつか目を覚まし、神の恵みのもとに導かれるよう、いつも祈っています。
エホバの証人を裁く必要なんてありません。
彼らは既に、神の裁きのもとにいるのです。
ですから、僕たちはなんとかして、彼らを救うべく、努力しなければいけないと思っています。
時々、現役エホバの証人が僕のブログにペタを残していかれます。
どういった意図で、こんな背教者のブログを読んだ痕跡を残していかれるのか、僕にはよく分かりません。
彼らが、統治体の言いなりではなく、自分で考え、判断し、行動する自由を求めているのなら、僕は歓迎します。
いまだに組織のロボットになっている人は、僕やこのブログを読む人の「目を覚まさせ」、エホバの証人組織の中に戻ってこさせようとしているのかもしれません。
そんな人は、自分たちの、出版物からのコピペだらけのブログを宣伝することに時間を浪費するくらいなら、レイモンド・フランズの「良心の危機」を読んで出直してきてください。
最後に。
元JWで、現役JWを責め立てる人へ。
もっと彼らの実情を思い、彼らを救い出すため、どんな手でも使いましょうよ。
彼らは統治体の言いなりにならず、元JWがなぜエホバの証人を離れようと思ったのか、知りたいと思っています。
彼らの心に、僕たちの言葉がどれほど響くかは分かりません。
でも、すべてのことを主にゆだね、自分にできることをやりましょうよ。


「教団施設でわいせつ」キリスト教団牧師を提訴 元信者の女性4人

聖神中央教会事件を思い出します・・・
まだしもの救いは、大半が脱会しているということでしょうか。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091018/trl0910180131000-n1.htm
 茨城県つくば市に本部を置くキリスト教系宗教法人の代表牧師(61)に教団施設内などで、わいせつな行為を繰り返されたとして、20~30代の元信者の女性4人が牧師と教団などを相手取り、計4620万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていたことが17日、被害関係者への取材で分かった。元信者側は一連の牧師の行為について茨城県警に相談し、刑事告訴も検討している。関係者によると、教団には約300人の信者が在籍していたが、わいせつ疑惑が表面化した昨年以降、大半が脱会したという。
 訴状によると、4人は平成12~19年の間、つくば市や東京都新宿区の教団施設の牧師室や茨城県土浦市の牧師の自宅などで、牧師と2人きりになった際、胸や下半身を触られたり、キスや性行為などを強要されたとしている。
 教団は弟子養成の一環として、神学校を運営しており、信者の一部は神学生として牧師と共同生活をしていたという。
 元信者側は「(牧師は)指導者の霊的権威は絶対不可侵であるなどと欺(ぎ)瞞(まん)的説法を繰り返し、被害女性を抗拒不能にさせた」と主張。被害を受けたという女性は「『君には癒やしが必要だ』といってセクハラをエスカレートさせた。衝撃的すぎて声も出なかった。嫌だと感じるのは自分の信仰が足りないせいだと思ってしまっていた」と話している。
 複数の関係者によると、牧師は韓国生まれ。昭和56年に来日し、62年にプロテスタント系の教団の前身組織を立ち上げた。牧師が導入した弟子養成のプログラムは高く評価され、国内の延べ2000の教会が影響を受けたとされる。国内5、国外3カ所に教会を持つほか、出版や物販の関連会社があり、牧師やその親族が役員を務めていた。
 牧師側は「一度たりとも性的関係を迫ったことはない。事実無根」とわいせつ疑惑を全面的に否定。今年2月の産経新聞の取材には「カイロプラクティックは互いに練習や実習を行っている。医療としての線を越えていない」「インターナショナルな文化でのあいさつは日常的に行われる環境にあるが、慣れなくて避ける人には無理に要求したことはない」などと回答していた。


表面化しにくい聖職者のわいせつ行為
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091018/trl0910180133001-n1.htm

 牧師など聖職者によるわいせつ行為は少なくない。団体内での権威を悪用し、宗教儀式的な理由を付けて行われる性的暴行は表面化しにくく、被害関係者からは「刑事事件や損害賠償訴訟に至っていない隠れた被害が、まだあるのではないか」と危(き)惧(ぐ)する声が上がっている。 「少女らは神に最も近い存在だった被告に逆らえば地獄に落ちると信じており、従順に行動せざるを得なかった」 京都地裁は平成18年2月、信者の少女7人に対する強姦(ごうかん)罪などで「聖神中央教会」(京都府)の元主管牧師(62)に懲役20年の判決を出した際、こう指摘した。判決は同年3月に確定。牧師と教会は元女性信者らに損害賠償訴訟も起こされ、5830万円の支払いを命じられた。 また、韓国の新興宗教「摂理」をめぐっては、韓国最高裁で4月、女性信者に対する強姦罪などで教祖に懲役10年の刑が確定した。日本国内でも複数の信者が教祖から暴行を受けたとされている。 摂理からの脱会者を支援する渡辺博弁護士は「性的被害の告白はハードルが高い。その上、宗教グループはひとつの社会となっており、自分が属する社会の絶対者を告発することは容易ではない」と語る。 一方で、「カトリック茨木教会」(大阪府)の司祭(74)が今年2月、信徒の女性(43)に教会内で抱きついたり、キスするなどしたとして、強制わいせつの疑いで大阪府警に逮捕された事件では、司祭は「なぐさめるためだった」とわいせつ目的であることを否認。地検は「軽く抱きついて唇に触れる程度の上、被害者が嫌がりながらも教会に2カ月も出入りしている」などとして、嫌疑不十分で不起訴処分とした。 捜査関係者は「この種の事件は、密室内の被害者の証言だけでは立証が困難だったり、わいせつの線引き自体が微妙なケースもある」と指摘している。


1Q84 BOOK2 より

図書館で「1Q84」を予約してました。
「ご予約の本が入荷しました!」というので、喜び勇んで図書館に行ってみたら・・・
BOOK1じゃなくてBOOK2でした・・・(´・ω・`)
やっぱ、BOOK1を読んどかないと、いきなりBOOK2を読み始めても???ですねあせる
さて、「証人会」に関するくだりがありましたのでご紹介。
第4章 (天吾)そんなことは望まない方がいいのかもしれない
彼女は今どこで何をしているのだろう? まだ「証人会」の信者であり続けているのだろうか?
そうでなければいいのだが、と天吾は思った。もちろん信仰するしないは個人の自由だ。天吾がいちいち口を出すべきことではない。しかし天吾の記憶によれば、「証人会」の信者であることを、少女時代の彼女が楽しんでいるようにはどうしても見えなかった。
学生時代に酒類卸店の倉庫でアルバイトをしたことがある。給料は悪くないが、重い荷物を運ぶきつい労働だった。一日の仕事が終わると、頑丈なことが取り柄の天吾でさえ、身体の節々が痛くなったものだ。そこにたまたま「証人会二世」として育った青年が二人働いていた。礼儀正しく、感じの良い連中だった。天吾と同じ年齢で、仕事ぶりも真面目だった。手を抜かず、文句も言わず働く。仕事の終わったあとで一度、三人で居酒屋に行って生ビールを飲んだことがある。二人は幼なじみだったが、数年前に事情があって信仰を捨てたということだった。そして一緒に教団を離れ、現実の世界に足を踏み入れた。しかし天吾が見たところ、二人とも新しい世界に今ひとつ馴染めないでいるようだった。生まれたときから狭く緊密なコミュニティーの中で育ったせいで、より広い世界のルールを理解し、受け入れることがむずかしくなっているのだ。彼らはしばしば判断力に自信をなくし、困惑した。信仰を捨てたことで解放感を味わうのと同時に、自分たちが間違った決断を下したのではないかという懐疑を捨てきれずにいた。
天吾は彼らに同情しないわけにはいかなかった。自我がはっきり確立される前に、まだ小さな子供のうちにその世界を離れれば、一般社会に同化できるチャンスは十分ある。でもそのチャンスを逃してしまうと、あとは「証人会」のコミュニティーの中で、その価値観に従って生きていくしかない。あるいは少なからぬ犠牲を払って、自力で生活習慣や意識を作り変えていくしかない。天吾はその二人と話しているときにその少女のことを思い出した。そして彼女が同じような苦痛を味わっていなければいいのだが、と思った。
エホバの証人二世にとって、とても共感できる文章ではないでしょうか。
僕は、20代前半でエホバの証人から離れ、新社会人とほぼ同じ時期に一般社会へ溶け込んでいったため、それほど抵抗なく「より広い世界のルールを理解し、受け入れる」ことができました。
でも、より年齢が高くなるほど、新しい世界に馴染むことは難しくなっていくんでしょうね。。。


ニューライフ・キリスト教会

河内長野にある教会で、元エホバの証人が多数交わっておられる教会です。
http://www.geocities.jp/jbm_newlife/top.htm
昨日、礼拝に出席してきました。
主任牧師のジャン・ドウゲン先生は、20年ほどにわたってエホバの証人救出に携わってこられました。
午後からは、ドウゲン牧師による「カルト脱出セミナー」がありました。
参考になる情報がいろいろあったのですが、詳しいことは後ほど。。。


“助けて”と言えない ~いま30代に何が~

今夜のNHK クローズアップ現代で、「助けて」と言えない30代について特集されていました。
今年4月、福岡県北九州市の住宅で39歳男性の遺体が発見された。男性は死の数日前から何も食べず、孤独死していたとみられる。しかし、男性は、困窮する自分の生活について、誰にも相談していなかった。いま、こうした命に危険を及ぼしかねない状況に陥っても、助けを求めない30代が増えている。彼らは「家族に迷惑をかけられない」「自分で仕事を見つけ、何とかする」と誰にも相談できずにいる。家族、友人、地域との繋がりを断ち切り、社会から孤立する30代。番組では、厳しい雇用情勢で先行きが見えないなか、静かに広がる「助けて」と言えない30代の実像に迫る。
(NO.2797)
番組内で出てきたのは、
・本来は働き盛りの30代だから、助けを求める=負けを認めることという思い込みから、助けを求められないのではないか
・仕事での挫折などをきっかけに、自分の存在を否定されたように感じ、助けを求めることができなくなっているのではないか
とのことでした。
ところで、(元であれ現役であれ)エホバの証人の皆さんはいかがですか?
「サタンの世の中だから」「どうせ自分を認めてくれる人なんかいないから」と、社会に助けを求めることをあきらめてしまっていませんか?
いつまでも助けに依存しつづける生き方は、もちろん健全とはいえません。
でも、誰だって、傷つき、つまずいたとき、助けを必要とするものです。
会衆の外には、だれも助けてくれる人などいないと、思い込んではいませんか?
そんなことない! と、僕は声を大にして言いたい。
たしかに社会には、利己的な人がたくさんいます。
でも、困った人に助けを差し伸べ、献身的にボランティア活動に従事している人々がたくさんいることも、また事実なのです。
エホバの証人じゃなくても、自己犠牲の愛を示している素晴らしい人たちはたくさんいます。
いえ、むしろ、社会福祉活動に背を向け、自分たちの思い込みに拘泥し「家から家に宣べ伝える」活動に没頭するエホバの証人のほうが、よほど独善的ではないですか?
どうか、「助けて」と言うことを、ためらわないでください。
世の中には、あなたの声を受け止めてくれる人が、必ず存在します。